南棟の異変、触れる影の意思
王立図書院・南棟。
普段は中級書庫として使われる静かな区域だが――
いまは完全に“騒然”としていた。
「封鎖しろ! 誰も入れるな!」
「いや、封鎖が効かないんだよ、結界が……!」
魔導職員たちが右往左往し、
結界器具がバチバチと火花を散らしている。
南棟へ向かう廊下を走りながら、
ソーマはすでに胸の奥がざわついていた。
(やばい……ここ、空気が重い……
さっきの禁書室より……ずっと……)
「南棟全体の揺れが沈んでいます……」
リュミが眉をひそめる。
「沈むってどういう意味だ?」
ガルムが肩越しに問う。
「“気配の深さ”です。
普通の揺れじゃなくて……
“存在が深い場所から浮き上がってる”感じ……」
「分かりやすく頼む!!」
ソーマが泣きそうに叫ぶ。
「つまり――」
セシリアがきっぱり言う。
「本体が近いってことよ」
「ひぇ……」
ソーマの脚が本格的に震えた。
◆
南棟の扉前に到着した瞬間――
――ズン……!
空気が一段沈み込んだ。
「……何、この圧……」
リュミが胸を押さえる。
「待って、揺れが……
すぐそこに……!」
(近い。
人の気配じゃない。
昨日の金髪の青年とも違う……)
イサナは一瞬で構えを取った。
「来るよ」
◆
次の瞬間――
南棟の扉の下の隙間から、
黒い“墨汁のような影”がにじみ出た。
「うわっ……!」
ソーマは反射的に後ずさる。
それは“形”を持たない。
人でも獣でもない。
ただ、あらゆる形に変わろうとする揺れの塊。
「影じゃねぇ……」
ガルムが唸る。
「影を模した“深層残滓”よ」
セシリアが目を細めた。
「深層……?」
ソーマが聞き返す。
「昨日の影リュミよりも深い層の残滓。
“感情”も“模倣”も未発達。
ただ“求める対象”にだけ反応する」
全員の視線が
自然とソーマへ向く。
「やめて!?!」
ソーマが叫ぶ。
「“求める対象”とか言うな!!
ほんとに狙われてるの俺じゃん!!」
「事実よ」
セシリアは優しいが容赦ない。
「優しくない!!」
◆
墨のような影が、
床を這うように“広がる”。
だが、広がり方に“偏り”があった。
「……ソーマさんの……方へ……」
リュミが息を呑む。
「いや来るなって!!
床からにじむな!! なんで床から!?
俺の人生、床と裂け目に縁ありすぎ!!」
「落ち着けソーマ!!」
ガルムが腕を掴む。
「落ち着けって言われて落ち着ける状況じゃないの!!」
◆
影が近づく気配に、
イサナは即座に動いた。
「《残影歩法》」
一瞬で影の前へ飛び込み、杖を突き刺す。
――シュッ……!
黒い揺れが、
イサナの足元を“避けるように”揺れた。
「避けた……?」
ソーマが驚く。
「違う。
イサナさんの“揺れ”が強すぎて、
影が触れられないの」
リュミが解説する。
「え……じゃあ俺は?」
「……触れられます」
リュミは正直だった。
「触れられますじゃない!!
もっとオブラートに包んで!!」
◆
セシリアが改めて構えた。
「深層残滓は、形を持たない分、
“揺れを引っ張る力”が異常に強い。
ソーマが近づけば――」
「引きずり込まれるって言いたいんでしょ!?
分かってるから余計怖いんだよ!!」
ソーマの声は裏返っていた。
その瞬間、
床に滲んでいた影が、
不意に“立ち上がった”。
――ずるっ……!
黒い液体が縦に伸び、
人型とも獣型ともつかない、
“不定形の柱”になる。
「立った……?」
ガルムが反射的に距離をとる。
「やだ……立つタイプ……!!」
ソーマが泣きそう。
◆
影の柱は揺れながら、
ゆっくりと“顔”のような形を作った。
目が二つ。
その奥で、金色の光点が揺れる。
「……あ」
ソーマの呼吸が止まりかけた。
「ソーマ!」
リュミが支える。
影が、声なき声で“唇の形”を作る。
《……ソ……マ……》
「名前呼んだ!!!」
ソーマが全力で後ずさった。
「もういやぁぁぁぁ!!!」
◆
そのとき――
――ザ……ザァァ……!
ソーマの耳奥に、
ノイズが走った。
(今……予報……!?
このタイミングで!?)
――『……本日……
局地的な……“通り道”の発生に警戒を……』
(通り道……?)
予報の声が続く。
――『……“形を持つ前の風”に触れると……
意識が外側に引き寄せられます……』
(形を持つ前の風……
って、これ明らかに目の前のコイツ!!)
「セシリア!!
これ、“通り道”作ってる!!
今のは“形になる前”だって!!」
「形になる前の……!?
じゃあ、完成したら――」
「そっちの世界へ“連れていく扉”になる!!」
ソーマは叫んだ。
リュミが震えながら言う。
「ソーマさん……
あれ、あなたを呼んでます……」
「呼ばれたくねぇぇぇぇ!!!」
◆
影の柱がゆっくりと“手”の形を作った。
その輪郭は、
金髪の青年の指先と酷似していた。
(……間違いない……
あいつの“揺れ”……)
(あいつの“意思”が……
形を持たずに、ここまで来てる……!)
イサナの瞳が鋭く光る。
「来るよ……!」
◆
影が腕を伸ばし――
ソーマへ直接触れようとした瞬間。
「させるかぁぁぁ!!」
ガルムの大斧が、
空気ごと影に叩き込まれた。
――ガンッ!!
影の柱は大きく揺れ、
床に広がって崩れた。
だが――
黒い揺れは消えない。
むしろ、
ガルムの一撃で“散った”影が、
どく、どく……
と、心臓の鼓動のように脈打ち始めた。
「……なに、これ……」
リュミの声が震える。
「“散った揺れ”が……
全部ソーマさんに向かって……」
「うわぁぁぁ!!
バラバラにされても追ってくるの!?!?」
ソーマが絶叫する。
◆
影が、床の上で
“ソーマの足跡と同じ形”に変わった。
「……ソーマの……“揺れの道”……」
イサナが呟く。
「揺れの……道?」
ソーマが振り向く。
イサナは、ソーマの目を真っ直ぐ見た。
「ソーマ。
影は“あなたの通ってきた場所”を辿ってる。
あなたの揺れ――
さっき禁書室で“鍵”として使われた痕跡を、追ってる」
「俺の……通った道……?」
ソーマの背筋が凍る。
セシリアが低く告げた。
「ソーマを連れて帰る“道しるべ”を作ってるのよ、あれ。
“本体”が後から通れるように。」
「やだぁぁぁぁぁ!!!
帰らん!! 戻らん!!
ここがメインの世界でいいの!!!」
「落ち着けソーマ!!!」
「落ち着けるかぁ!!!」
◆
影が、再び人型になろうと揺れ始める。
――その瞬間。
廊下の奥が、
じわりと“白く”光り始めた。
「……来る」
イサナの声が震えた。
「本体の……
“予兆”……!」
ソーマは本能で理解した。
(あいつが……
金髪の青年が……
近づいてる……!!)
胸の中で、
耳奥で、
世界のどこかで、
“風の揺れ”が震えた。




