記録しないという選択
問題は、
いつも静かに始まる。
天象庁の会議室で、
それは「確認事項」として
持ち出された。
「王都北端の件ですが――」
淡々とした声。
机の上に置かれた書類。
「正式な事故記録としては、
被害軽微、再発防止策済み。
以上でよろしいですね?」
誰もが、
一度は頷きかけた。
形式としては、
完璧だったからだ。
だが――
ソーマは、
その「完璧さ」に
違和感を覚えていた。
「……一つ……
確認させてください」
場の空気が、
わずかに張る。
発言したのが、
ソーマだったからだ。
「……その記録に……
“迷った末に遅れた判断”は……
含まれていますか」
一瞬、
沈黙。
年配の職員が、
困ったように
眼鏡を押し上げる。
「……判断過程は……
記録対象外です……」
「……結果のみ……
記録します……」
それは、
天象庁の
長年の原則だった。
再現性。
検証性。
客観性。
だが――
ソーマは、
静かに首を振った。
「……それは……
“安全だった理由”を……
消すことになります」
ざわめき。
セシリアが、
即座に補足する。
「今回の事故は、
予測できなかった部分が
多い。
しかし、被害が抑えられたのは、
“遅れた判断”が
連鎖した結果です」
「……それを……
記録しないのは……
次に繋がらない」
年配の職員は、
眉をひそめた。
「……しかし……
それは……
数値化できません……」
「……再現性が……
ありません……」
ソーマは、
その言葉を
真正面から受け止めた。
「……再現できないものは……
消していい……
ということですか」
会議室が、
静まり返る。
誰も、
「はい」とは
言わない。
だが――
否定もしない。
ガルムが、
低く呟いた。
「……つまり……
邪魔なんだろ……」
「……管理できねぇ
もんは……」
その一言が、
核心だった。
天象庁は、
世界を守る組織だ。
だが同時に、
世界を管理しなければ
ならない。
管理できない判断。
数値にできない迷い。
言語化できない恐怖。
それらは、
いつも
記録から外される。
リュミが、
胸に手を当てて
言った。
「……空も……
管理できません……」
「……それでも……
観測は……
やめません……」
その言葉に、
ソーマは
小さく頷いた。
「……そうだ……」
「……記録しない……
という選択も……
選択だ……」
「……なら……
それを……
隠すな……」
「……公式記録には……
残さなくていい……」
「……だが……
消すな……」
会議室の空気が、
変わる。
それは、
賛成でも反対でもない。
重さだった。
最終的に、
決定はこうなった。
・事故記録は従来通り残す
・だが、別枠で
「判断経過の非公式記録」を
天象庁内部に保管する
・評価や数値化はしない
・参照は自由
・結論は出さない
矛盾した、
曖昧な決定。
だが――
それでよかった。
夜。
屋上で、
ソーマは
王都を見下ろしていた。
灯りは整然としている。
だが、その下で、
人は今日も迷い、
立ち止まり、
選び続けている。
帳面を開く。
――記録しないという選択は、
忘れるためじゃない。
――管理しないための、
意思表示だ。
――世界は、
管理しきれないから、
生きている。
ペンを置く。
(……完璧じゃない……)
(……だが……
間違っても……
いない……)
王都の空は、
相変わらず
重い。
だが――
その重さを
誰も
一人で背負ってはいなかった。




