30. 卒業前夜祭、飴ちゃん日和
早春の風は、まだ冷たい。
せやのに学園の中庭は、朝から湯気だらけや。釜から立つ湯気。焦げかけた砂糖の匂い。子どもみたいな笑い声。
長机が三本。飴と、茶と、焼き菓子。領地から出張ってきた寡婦のおかみさんらが釜の番をして、行商のおかみ連が屋台を張っとる。真ん中のいちばんええ席に座っとるんは、去年まで壁際で膝を抱えとった令嬢らや。今日は、あの子らが主役の側におる。
「テレージア様。屋台の並びは、風上に甘いもの、風下に茶ですわ」
オルテンシアが扇で采配を振っとる。この子はもう、うちが要らんくらいや。姉二人の後ろの名前やった子が、いまは自分の名前で仕切っとる。
釜の前の寡婦のおかみさんらは、去年の初夏には五人やった。いまは二十人おる。うちが全員の名前を覚えきれんようになったんが、店を開けてからのいちばんの手柄やと思うとる。
行商のおかみ連の屋台では、十粒袋が飛ぶように減っていった。一粒、銅貨一枚。今日だけは、代金の代わりに「おおきに」でええことにしてある。
ドルテさんは、手拭いを配って回っとる。今日は泣く人が多いやろ、いう読みらしい。あの人の読みは、たいてい当たる。
ギヨムはんは焼き菓子の担当や。朝から三度も焼き加減を直しとった。
殿下とポレットちゃんは、並んで給仕を手伝うとる。茶を注いで、飴を配って、二人して同じところで手ぇが触れて、同じように赤うなる。……はいはい、ごちそうさん。
末席では、父上と兄上が、林檎の蜂蜜煮の最後の一切れを取り合うとる。公爵家の当主と嫡男が、皿の上で無言の睨み合いをしとる図や。あの冷えた食卓に湯気が戻ったんが去年の初夏やと思うと、なかなか感慨深い。
書架の礼にと、白髪の司書の先生も来てくれた。「本は、待てる子の所にも、待てない子の所にも要りますからねぇ」と、去年とおんなじ台詞を言うて笑わはる。
薬草院のおっちゃんは、孫を連れてきよった。飴湯で冬を越したいう子ぉが、いま、うちの飴を両手に握って走り回っとる。
番頭さんからは、文が一通だけ届いとる。お務めの中からや。短い字ぃで、「麦芽は、水に浸ける刻限が命でございます」とだけ書いたある。
……あの人、まだ教える気でおるわ。
「数字の確認に来た」
と言うて現れたドラウム侯爵は、確認だけなら五分で済むはずやのに、飴湯を三杯おかわりして、まだ帰らへん。目尻に、皺が三本寄っとる。
北からは、文も届いとる。
『今年の冬は、咳が半分だった。飴湯の作り方は、ぼくの国の三軒に広まっている。次の冬は、六軒にするつもりだ』
……ミルコくん。それ、闇落ちする子ぉの手紙とちゃうやろ。
遠くの回廊を、豹紋の令嬢が三人、笑いながら通っていく。流行いうんは、始めた本人を置いて勝手に走るもんらしい。
――一年前の今日。
うちはこの日に、この学園で、みんなの前で断罪されて、国を追われて、野垂れ死ぬはずやったんや。みっちゃんの語ったお話の中では、そういうことになっとった。
みっちゃんの話では、ここでうちが泣き叫んで、衛兵に引きずられていく手筈やねん。
……悪いな。今日のうちは、飴の在庫の心配で忙しいねん。
壇は、どこにもない。吊るされとる人も、おらん。
あるのは長机と、湯気と、口いっぱいに飴を頬張った子らの、行儀の悪い笑い声だけや。
「飴ちゃん令嬢さま! こっちの机にも、もう一箱ください!」
中庭の向こうから、下級生の子ぉが手ぇを振っとる。
……飴ちゃん令嬢。いつの間にか、そう呼ばれとる。悪役令嬢の看板は、気ぃついたら誰も掛けてくれへん。うちが外したんとちゃう。みんなが勝手に、掛け替えよったんや。
――看板いうんは、そういうもんやな。自分で名乗るもんやのうて、人が呼んでくれるもんや。
うちは、懐から紙を出した。誰にも出さん手紙や。
みっちゃんへ。
あんたにいっぺん、閉店の挨拶がしたかった。「長いこと、おおきに」て。それが言えんまま、うちはぽっくり逝ってしもたさかい、代わりに、こっちの報告をしとくわ。
うちは、六十八年ぶんの店番のあと、もういっぺん十七年やらせてもろた。二周目は、断罪から始まったんやで。えらい始まり方やろ?
しんどかった。しんどかったけど、店をやっとると、しんどい日ぃほど、あとになって思い出すやん。あれと一緒や。
悪役令嬢は、追放されんかった。……いや、この書き方はもう古いわ。こっちではいま、飴ちゃん令嬢で通っとる。ヒロインの子は、幸せになってる。あんたの言うてた通り、王子さまと結ばれたで。推しカプ、成立や。
あんた、「監察官ルート、はよ実装して」て、レジ前で毎日言うてたやろ? うち、あれをしっかり覚えとってな。おかげで初対面の晩に「みっちゃんの推しやん」て口走ってもうて、たいがい怪しまれたわ。
ほんで――堪忍な。
あんたの推し。あの眼鏡。……うちが、もろときますわ。
推しカプは成立させといたさかい、それで貸し借りなし。手ぇ打ってんか。
「何を書いておられるのですか?」
いつの間にか、隣に婚約者が立っとった。手には湯呑みが二つ。片方をうちに渡して、当たり前の顔で隣に座る。
「手紙。出す先のない手紙や」
「……宛先のない文書は、規定にありません」
「ほな、あんたが預かっとき。あんた、そういうん得意やろ?」
「承ります。……それと、一つ報告が」
湯呑みを両手で包んだまま、この人は妙に居住まいを正す。
「なんや?」
「私は来月から、非番が増えます。婚礼の支度は、職務ではありませんので」
……この理屈、一生続くんやろな。ええわ。付き合うたる。
うちは巾着から一粒出して、指で半分に割った。割れた片っぽを、隣の掌に載せる。
「はい、飴ちゃん。半分こや」
あの人は、それを受け取って、口に入れて――ちょっとだけ、笑う。
六十八年、配って、配って。
二周目は、配って、配って、最後にちゃんと、もろた。
風が、ちょっとだけ温い。春の匂いや。
中庭のあちこちで、笑い声が上がっとる。うちが配ったんは飴ちゃんだけやのに、返ってきたもんは、数えきれんくらいある。……勘定が、まるで合うてへん。合うてへんけど、この差額は、返さんでもええやつやろ。
……ええ人生や。二周目も、なかなかのもんやで。
――ずっとあとの話になる。
うちの旦那になった男の手帳の、いちばん最後の頁に、こんな一行が残っとった。もう調査官やない人間の、誰に出すあてもない私記や。
『本日、対象は良く笑った。以上』
(了)




