表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
29/30

29. 最終報告書

 三日、来ぇへんかった。


 四日目も、来ぇへん。


 うちは平気な顔で鍋を振って、寡婦のおかみさんらに冗談を言うて、包み紙の数を数えた。数えながら、戸口の柱のほうを、なんべんも見てしまう。あそこに黒い影が背中を預けとるんが、いつの間にか、うちの工房の景色の一部になっとったんやなあ。


 夕暮れになると、その柱だけが、やけに寒々しゅう見える。工房の湯気は、いつも通り上がる。飴も、いつも通り炊ける。何ひとつ変わってへんのに、一日が、やたら長い。


 おかみさんらは、なんも言わへん。言わへんけど、いつもより一杯多う茶を淹れてくる。ポレットちゃんは三日目に「お義姉様、お顔の色が」と言いかけて、うちが笑うたら、それ以上は聞かんかった。


 ……気ぃつかいの多い家になったもんやな。


 六十八年、うちは配る側で生きてきた。


 配るいうのは、加減ができる。今日は一粒、この人には三粒。こっちの都合で決められる。もらうのは、そうはいかん。相手の都合で来るもんを、そのまま受けなあかん。断ることも返すこともできひん重さが、ぽん、と掌に載る。


 ……夫を看取った晩、近所の人が持ってきてくれた握り飯を、うちは食べられんかった。あの時の怖さと、いまのこれは、たぶんおんなじもんや。


 見せるくらいなら、配っとくほうが楽やねん。そうやって、下手なまんま、ここまで来てしもうた。


 その週の終わりの午後、公爵家の玄関に、正装の男が立つ。


 黒の礼装。眼鏡はいつも通り。手には、紙が一枚。


 うちのほうは、手が粉だらけや。前掛けも外してへん。


「……ちょお待ち。着替える時間、くれるか?」


「いいえ」


「いいえ!?」


「粉の付いた手で、お聞き頂きたいのです。……そういう方を、本官は書いてまいりましたので」


 ……あかん。初手から、あかん。


「本日は、非番ではありません。職務でもありません。……本官の、私事です」


 ドルテさんが、ものすごい速さで応接の扉を閉めていく。閉める前に、廊下の向こうで兄上がずっこける音がしたけど、まあ、ええわ。


 ルドガーはんは紙を広げて、読み上げた。◇の様式やない。自分の声でや。


「王室調査記録、最終報。対象、グランハルト公爵令嬢テレージア」


「……はい」


「対象は毒ではない。すり替わりでもない。対象は、配る人である」


 紙を持つ手が、微かに揺れとる。


「春からの観察において、対象が受け取る側に立った記録は、一度もない。飴を、詫びを、賃金を、時間を、対象は常に配る側にあった。よって本官は――対象の観察を、生涯継続したく、ここに上申する」


 紙が、下ろされた。


「以上が、陛下に提出した最終報です」


「……あんた。それ、ほんまに王宮に出したんか?」


「出しました。本官は、手続きの男です」


 眼鏡が、まっすぐこっちを向く。


「裁可は、頂いてあります」


 ……この子は。この子は、ほんまに。


 叙爵の沙汰も、婿入りの筋も、公爵家の承諾の段取りも、全部そろえてから来よったんや。父上の返事は、聞かんでも分かる。案の定、扉の向こうから聞こえてきた。


「…………部屋は、余っている」


「それはポレットの時の――もういい! もういいです!」


 兄上が天を仰いどる。廊下で聞くな、兄上。


 ほんで、ルドガーはんが、うちの前に膝をついた。


 差し出された掌に、飴玉が一粒。うちの店の、はちみつ飴ちゃんや。母の味の、あれや。


「甘いものは、配る人にこそ要るそうです」


 ――あかん。


 喉の奥が、いきなり熱うなる。


「……あんたな。ひとつ、言うとかなあかんことがある」


「何でしょう? 何があっても変わりませんが」


 うちは、洟をすすった。記憶が戻ってから、誰にも言わんかったことや。


「うちは、中身が六十八のばあちゃんやねん」


「……は?」


 さすがのルドガーはんもこればっかりは想定を超えたらしい。動かんようになる。


「前の世で六十八年、飴屋をやっとった婆さんが、この体に入っとんのや。……いや、入ったんとちゃうな。生まれ直した、が正しいらしい。若い娘の顔しとるだけで、中身は皺くちゃの飴屋のばあさんや。あんた、二十四やろ? 棺桶に片足突っ込んだ婆さんに、なにを上申しとんねん?」


「しわくちゃ……」


 ポカンと口を開いたまま固まる眼鏡――――。


 長い、長い間があった。


 それから、この子が言うたんは、これや。


「……腑に落ちました」


「はい!?」


「『心の故郷』。『うちの国では』。閉店の挨拶が言えんかった、という心残り。銀の飴入れに向かって述べていた言葉。それに、複利の暗算。……本官の手帳には、説明のつかん記録が三十七件ございます。いま、その全部に、説明がつきました」


 ルドガーはんは、膝をついたまま顔を上げる。


「六十八年分も、十七年分も変わりません。春から今日まで、私が報告書に書いてきたあなたは、一人です」


 ……ずるいわ、ほんまに。


 頭では、分かるんや。


 この子が嘘を言わへんことも、手続きを飛ばさへんことも、うちがいちばん知っとる。春から、隣で見てきたんやから。


 せやのに、心のほうが追いつかへん。あの春の晩、壇の上で記憶が戻った時とおんなじや。分かるのに、追いつかへん。うちの心は、いっつも湯冷めみたいに遅れてくる。


 ――ほな、待たせといたらええわ。


 うちは、震える指で、その一粒をつまんだ。


 つまんで、口に入れて――そこから先は、もう、あかん。


 蜂蜜と、麦の甘さが、舌の上でゆっくりほどけていく。母が泣いた日にくれた味で、うちが今世で作り直した味や。配って配って、店の名前にまでした味を、うちは今日、初めて人からもろた。


「…………甘いなあ」


 涙が、あとからあとから出てくる。六十八年、人前で泣いたんは夫の葬式の日ぃだけやったのに、なんでこんな、飴一粒で。


 ルドガーはんは、なんも言わへん。ただ、膝をついたまま、うちが泣き止むまで待っとった。……待つのが仕事の男は、こういう時に強い。


「……ルドガーはん」


「はい」


「うちは飴屋やで。嫁いだかて、鍋は振る。夜中に炊くこともあるし、おかみさんらと下品な声で笑うこともあるで。それでも、ええんか?」


「報告書に、全部書いてあります」


「……ほんまに、ずるいわ」


 うちは洟をすすって、前掛けの粉を払って、それから背筋を伸ばした。


「――ほな。ふつつか者ですけど、よろしゅうお願いします」


 ルドガーはんの手を取り、六十八年ぶんの照れくささを、全部いっぺんに飲み込んでの一言や。


 ルドガーはんは、しばらく固まって――それから、耳の先まで、まっ赤になる。


 その晩、卓の上に案内状が置いてある。学園から、卒業前夜祭の。


 日付を見て、うちは笑うてしもた。


 ――みっちゃん。あんたの言うてた、断罪の日ぃやで。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ