29. 最終報告書
三日、来ぇへんかった。
四日目も、来ぇへん。
うちは平気な顔で鍋を振って、寡婦のおかみさんらに冗談を言うて、包み紙の数を数えた。数えながら、戸口の柱のほうを、なんべんも見てしまう。あそこに黒い影が背中を預けとるんが、いつの間にか、うちの工房の景色の一部になっとったんやなあ。
夕暮れになると、その柱だけが、やけに寒々しゅう見える。工房の湯気は、いつも通り上がる。飴も、いつも通り炊ける。何ひとつ変わってへんのに、一日が、やたら長い。
おかみさんらは、なんも言わへん。言わへんけど、いつもより一杯多う茶を淹れてくる。ポレットちゃんは三日目に「お義姉様、お顔の色が」と言いかけて、うちが笑うたら、それ以上は聞かんかった。
……気ぃつかいの多い家になったもんやな。
六十八年、うちは配る側で生きてきた。
配るいうのは、加減ができる。今日は一粒、この人には三粒。こっちの都合で決められる。もらうのは、そうはいかん。相手の都合で来るもんを、そのまま受けなあかん。断ることも返すこともできひん重さが、ぽん、と掌に載る。
……夫を看取った晩、近所の人が持ってきてくれた握り飯を、うちは食べられんかった。あの時の怖さと、いまのこれは、たぶんおんなじもんや。
見せるくらいなら、配っとくほうが楽やねん。そうやって、下手なまんま、ここまで来てしもうた。
その週の終わりの午後、公爵家の玄関に、正装の男が立つ。
黒の礼装。眼鏡はいつも通り。手には、紙が一枚。
うちのほうは、手が粉だらけや。前掛けも外してへん。
「……ちょお待ち。着替える時間、くれるか?」
「いいえ」
「いいえ!?」
「粉の付いた手で、お聞き頂きたいのです。……そういう方を、本官は書いてまいりましたので」
……あかん。初手から、あかん。
「本日は、非番ではありません。職務でもありません。……本官の、私事です」
ドルテさんが、ものすごい速さで応接の扉を閉めていく。閉める前に、廊下の向こうで兄上がずっこける音がしたけど、まあ、ええわ。
ルドガーはんは紙を広げて、読み上げた。◇の様式やない。自分の声でや。
「王室調査記録、最終報。対象、グランハルト公爵令嬢テレージア」
「……はい」
「対象は毒ではない。すり替わりでもない。対象は、配る人である」
紙を持つ手が、微かに揺れとる。
「春からの観察において、対象が受け取る側に立った記録は、一度もない。飴を、詫びを、賃金を、時間を、対象は常に配る側にあった。よって本官は――対象の観察を、生涯継続したく、ここに上申する」
紙が、下ろされた。
「以上が、陛下に提出した最終報です」
「……あんた。それ、ほんまに王宮に出したんか?」
「出しました。本官は、手続きの男です」
眼鏡が、まっすぐこっちを向く。
「裁可は、頂いてあります」
……この子は。この子は、ほんまに。
叙爵の沙汰も、婿入りの筋も、公爵家の承諾の段取りも、全部そろえてから来よったんや。父上の返事は、聞かんでも分かる。案の定、扉の向こうから聞こえてきた。
「…………部屋は、余っている」
「それはポレットの時の――もういい! もういいです!」
兄上が天を仰いどる。廊下で聞くな、兄上。
ほんで、ルドガーはんが、うちの前に膝をついた。
差し出された掌に、飴玉が一粒。うちの店の、はちみつ飴ちゃんや。母の味の、あれや。
「甘いものは、配る人にこそ要るそうです」
――あかん。
喉の奥が、いきなり熱うなる。
「……あんたな。ひとつ、言うとかなあかんことがある」
「何でしょう? 何があっても変わりませんが」
うちは、洟をすすった。記憶が戻ってから、誰にも言わんかったことや。
「うちは、中身が六十八のばあちゃんやねん」
「……は?」
さすがのルドガーはんもこればっかりは想定を超えたらしい。動かんようになる。
「前の世で六十八年、飴屋をやっとった婆さんが、この体に入っとんのや。……いや、入ったんとちゃうな。生まれ直した、が正しいらしい。若い娘の顔しとるだけで、中身は皺くちゃの飴屋のばあさんや。あんた、二十四やろ? 棺桶に片足突っ込んだ婆さんに、なにを上申しとんねん?」
「しわくちゃ……」
ポカンと口を開いたまま固まる眼鏡――――。
長い、長い間があった。
それから、この子が言うたんは、これや。
「……腑に落ちました」
「はい!?」
「『心の故郷』。『うちの国では』。閉店の挨拶が言えんかった、という心残り。銀の飴入れに向かって述べていた言葉。それに、複利の暗算。……本官の手帳には、説明のつかん記録が三十七件ございます。いま、その全部に、説明がつきました」
ルドガーはんは、膝をついたまま顔を上げる。
「六十八年分も、十七年分も変わりません。春から今日まで、私が報告書に書いてきたあなたは、一人です」
……ずるいわ、ほんまに。
頭では、分かるんや。
この子が嘘を言わへんことも、手続きを飛ばさへんことも、うちがいちばん知っとる。春から、隣で見てきたんやから。
せやのに、心のほうが追いつかへん。あの春の晩、壇の上で記憶が戻った時とおんなじや。分かるのに、追いつかへん。うちの心は、いっつも湯冷めみたいに遅れてくる。
――ほな、待たせといたらええわ。
うちは、震える指で、その一粒をつまんだ。
つまんで、口に入れて――そこから先は、もう、あかん。
蜂蜜と、麦の甘さが、舌の上でゆっくりほどけていく。母が泣いた日にくれた味で、うちが今世で作り直した味や。配って配って、店の名前にまでした味を、うちは今日、初めて人からもろた。
「…………甘いなあ」
涙が、あとからあとから出てくる。六十八年、人前で泣いたんは夫の葬式の日ぃだけやったのに、なんでこんな、飴一粒で。
ルドガーはんは、なんも言わへん。ただ、膝をついたまま、うちが泣き止むまで待っとった。……待つのが仕事の男は、こういう時に強い。
「……ルドガーはん」
「はい」
「うちは飴屋やで。嫁いだかて、鍋は振る。夜中に炊くこともあるし、おかみさんらと下品な声で笑うこともあるで。それでも、ええんか?」
「報告書に、全部書いてあります」
「……ほんまに、ずるいわ」
うちは洟をすすって、前掛けの粉を払って、それから背筋を伸ばした。
「――ほな。ふつつか者ですけど、よろしゅうお願いします」
ルドガーはんの手を取り、六十八年ぶんの照れくささを、全部いっぺんに飲み込んでの一言や。
ルドガーはんは、しばらく固まって――それから、耳の先まで、まっ赤になる。
その晩、卓の上に案内状が置いてある。学園から、卒業前夜祭の。
日付を見て、うちは笑うてしもた。
――みっちゃん。あんたの言うてた、断罪の日ぃやで。




