20. 帳面、全部めくるで
朝、迎えに行こか、さんざ迷うて――結局、やめにする。
「自分で」て書いた三文字の、筆の力の入り具合を見たからや。あれは、止めたらあかん字ぃや。そのかわり、商会までの行き帰りの道筋には、井戸端の目ぇをようけ立たせてもろた。おかみ連は朝から、商会の界隈でやたら丁寧に飴を売り歩いとる。
――夕方。ポレットちゃんは、自分の足で工房へ来た。
顔は白い。せやのに、背筋だけは伸びとる。震える手ぇで、うちの前に一枚の紙を置いた。署名の欄が空のままの、約定書や。
「……署名、せずに、逃げてきました」
「うん」
「お話は、最後まで聞いて……それから、考えさせてください、と申し上げて、席を立ちました。……廊下を曲がってからは、は、走りました」
「上等や。まず座り。茶ぁ淹れたる」
壁際には、いつもの眼鏡が控えとる。話の間じゅう、手帳を構えたまま――筆の音が、一度も鳴らんかった。
話は、こうや。
応接に出てきたんは、会頭のギボルト本人。口上は丁寧、茶菓子は上等。ほんで中身は――借金の帳消しや。メリス男爵家の元利残、四十枚と銀四。それを一文残らず消して、蜂蜜も今後は市価の十枚で買い直す、学園の費えも商会が持つ、いう大盤振る舞いや。
引き換えの条件が、約定書のこの一行や。
『妃となられた暁には、甘味専売の存続に、お口添えを賜りたく』。
「……妃て。あんた、まだ婚約のこの字もあらへんのに」
「わ、私も、そう申し上げました。そうしましたら……」
ポレットちゃんの声が、細うなる。
「王太子殿下が、男爵家の蜂蜜の検分にお立ち会いになり、お忍びで、飴の列にもお並びになった。……ああいうことをなさる方の先々に賭けておくのが、商いでございます、と」
……地獄耳の、先回りや。ようもまあ、人さまの恋路を先物買いしよって。
「ほんで。断ったらどうなるか、いうような話は、出たか?」
「……お断りになっても構いません、と仰いました。ただ……『蜂蜜は、野ざらしの商いですからな。来年の買い手が、今年と同じとは限りませんが』……と」
……ほう。脅しの文言は一行もあらへん。あらへんように、こしらえたある。
「せやけどあんた、ようぐらつかんかったな。蜂蜜だけでも、うちの八枚より高い十枚やで」
「……ぐらつきません、でした」
ポレットちゃんは、顔を上げた。目ぇの縁は赤いのに、芯の据わった目ぇや。
「あの十枚は、蜂蜜の値段ではなくて……私の署名の、値段ですから」
――よう見えとる。うちは何も教えとらんのに、この子は勘定の一番大事なとこを、自分の目ぇで見よった。
うちは、しばらく黙る。
黙って、巾着から飴を出して、一粒、舐めた。
むぅ……。
……二粒目。
どないしまひょ……。
……三粒目。
給仕に来た侍女の子ぉが、盆を抱えたまま、そうっと後退りしていくんが視界の端に映る。ドルテさんまで、心なしか壁際に寄っとる。……なんでや。飴、舐めとるだけやで。
「ポレットちゃん」
「は、はいっ」
「あんたは、ようやった。世界一や。話を最後まで聞いて、その場で判子をつかんと、逃げた。……交渉の席でいちばん偉いんはな、勝つ人と違う。逃げなあかん時に、ちゃんと逃げられる人や」
白い顔がくしゃっと歪んで、それから、やっと泣いた。ええよ、泣き。あの席で泣かんかった分、ここで全部泣いとき。
泣き止んだ頃、うちは紙と筆を出した。
「ほな、お断りの文ぃ書こか。あんたの字ぃで、あんたの言葉でや。書き方はな、飾りを全部取ること。何を断るか、なんで断るか、これからどうするか。それだけを、三行や」
ポレットちゃんは頷いて、書いた。
『お申し出は、お受けいたしかねます。借金は、約定の通り、家で返してまいります。蜂蜜は、いまの契約の通りに売ります』
――三行と、署名ひとつ。飾りがのうて、逃げ場ものうて、まっすぐな、ええ文や。里のお父君には、うちからも文ぃを添えた。商会が今度は領地のほうへ回り込まんように、や。
文ぃを使いに託し、ポレットちゃんを馬車で送り出して――うちはひとりで、工房の窓辺に立った。
暮れかけの王都の屋根の波の向こうに、商会本店の三階建てが、遠う小そう見えとる。
「……ギボルトはん」
買い叩きも、買い占めも、まだ商いの内やと思うて、付き合うたるつもりでおったんや。今日のかて、法の帳面では、たぶん罪にならへん。脅しの文言は一行もない。あるんは、断った先の冬をそっと匂わす、上等の言い回しだけや。
――せやけどな。うちの帳面では、別や。
子ぉの弱みに証文を当てて、恋路の先々に賭け金を積んで、断りの向こうに冬の匂いを置く。そういうんは、商売やない。うちの帳面ではな、恐喝の欄に付くんや。ほんで、法が裁かへん欄は――商いで返す。それが、うちの流儀や。
「うち、あんたの帳面――全部、めくるで」
声は、静かに出た。静かな声のほうが、自分でもよう分かる。……ああ、うちはいま、ほんまもんで怒っとるんやなあ、て。
◇
王室調査記録 第十九報。対象、グランハルト公爵令嬢テレージア。商会が男爵家令嬢に対し、債務の帳消しと引き換えに、将来の政治的な口添えを求める約定を提示した。令嬢は署名せず退席している。特記事項。対象は報告を聞き、無言で飴を三粒、続けて舐めた。当該の無言は、当調査室の観察記録において最長である。対象は極めて危険な状態にあると思料する。危険の向かう先は、対象ではない。以上。
その晩、工房の火ぃを落として戸締まりをしとったら、戸口の柱に、黒い影が背中を預けとった。
眼鏡が、月明かりを受けて光る。
「……本官の職分は、対象の観察です」
「知っとるよ。よう働く観察や」
「観察は、見ることです。見ることしか、できません。……ですが、見ることしかできん目ぇにも、見えてしもたものが、あります」
眼鏡が、まっすぐこっちを向く。いつもの判子の顔から、判子が外れとる。
「専売の票のない砂糖屑が、市中に流れている。その上で本日、商会は婚姻がらみの賭けを打ってまで、専売の存続に執着した。……専売の帳尻の、どこかが狂っています。狂いを調べるのは観察の職分ではなく、調査の職分です」
「……あんたのいまの職分とも、違うやろ」
「はい。ですから――上申します。観察の対象を、広げます」
何を、とは聞かんかった。聞かんでも、この子の目ぇの向いとる先は、うちとおんなじ方角や。
……よっしゃ。ほな、こっちも支度や。
帳面をめくる指ぃは、多いほうがええさかいな。




