18. 体験版の記憶
夏の終わりの騒ぎがひと段落して、朝晩の風に秋が混じり始めた頃――学園に、お客さんが来た。
ノルトハイムの第三王子、ミルコ殿下。歳は十五。療養を兼ねての留学で、講義は体の調子のええ日ぃだけ、住まいは王宮の離宮。いうんが、表向きの紹介や。
学園は、ひとしきりその噂で持ちきりやった。隣国の王子さま、御年十五、それはそれはお綺麗な方、せやけど誰とも口をきかはらへん――令嬢たちの熱は遠巻きのまま、距離も遠巻きのままや。……遠巻きいうんはな、親切の顔をした無関心やで。
初めて姿を見たんは、図書室やった。
窓際のいちばん奥の席に、本を三方に積み上げて、その谷間に埋まるように座っとる。青白い顔、細い首、頁をめくる指ぃだけがよう動く。……ありゃ本の壁や。読書やのうて、築城やな。
うちは挨拶に行った。廊下やら教室やら、逃げ場のない場所で捕まえるんは下策や。本人の城の、門の前がええ。
「ごきげんよう、ミルコ殿下。テレージア・グランハルトです。ようこそ、エルデンベルクへ」
顔も上げんと、細い声が返ってくる。
「……公爵家の。噂は聞いています。飴の人でしょう」
「せや、飴の人や。一粒どうぞ――」
「毒見が要ります」
脇に控えとった年かさの侍従が、静かに、せやけど鋼の速さで間に入った。……忠義の速い、ええ侍従はんや。
「本人からも、申し上げます。施しは、いらない」
本の壁の向こうから、今度ははっきりした声が出た。
「ぼくに親切にする人は、みんな、ぼくの後ろの国を見てる。あなたも公爵家の人でしょう。無駄ですよ。ぼくは第三王子で、病弱で、外交の値打ちなんて、ない」
言い切って、また頁へ目ぇを落とす。取り付く島も、あらへん。……せやけどな、うちは知っとるんやで。「無駄ですよ」を先回りで言う子ぉはな、無駄やなかった例しを、まだいっぺんも見せてもろてへん子ぉなんや。
……はあ、なるほどなあ。十五で、これを言えるように育ってしもたか。
みっちゃんの体験版知識が、頭の奥で疼く。きら学の続編は、この子が闇落ちして、戦争になりかける話。ほんで、うちの知っとるんは、ほんまにそこまでや。原因も知らん。結末も知らん。何がこの子をそこへ追い込むんかも、知らん。
……えらいこっちゃ、で止まっとる知識ほど、怖いもんはないんやで。ほんまに。
せやけど、こういう子ぉにぐいぐい行くんは下策の下策や。壁いうんはな、押したら固うなるんよ。
「そうか。ほな、施しはやめとくわ」
うちは飴を、するんと巾着に戻す。
「……帰らないんですか?」
「帰るよ。その前に、ひとつだけ。あんたのその本、面白いん?」
頁をめくる指ぃが、止まった。
「……博物誌です。南方の、虫の」
「虫かあ。どんな虫が好きなん?」
「…………冬を、土の中で越す甲虫が」
「土ん中で冬越しか。賢いなあ、虫は。無理せんと、ちゃんと春を待つんやな」
本の壁の上から、初めて、目ぇがちらっと覗いた。灰色の、警戒だらけの、せやけど年相応の目ぇや。
「……あなたは、変な人だ」
「よう言われるわ。ほな、また来るな。挨拶だけしに」
「来なくていい」
「季節の挨拶は、するもんやさかい」
図書室を出たとこで、さっきの年かさの侍従が追うてきて、深々と頭を下げた。
「先ほどの御無礼の数々、平にご容赦を。それと――」
侍従はんは一拍ためろうて、声を落とす。
「殿下があれほど長くお喋りになったのは、こちらの国へ来て、初めてでございます。……お礼を。それだけ、申し上げたく」
「長い、て。虫の話、二往復やで」
「その二往復が、でございます」
……そうか。二往復が最長の子ぉか。ほな次は三往復や。長期戦、上等やで。おばちゃんはな、季節の挨拶から始めて、十年かけて常連にした客が何人もおるんや。
窓の外で、色づき始めた並木が風に鳴っとった。故郷から遠い国の秋いうんは、椅子の高さひとつまで他人行儀に感じるもんや。……あの子の椅子をな、ちょっとずつ、この国の椅子にしたる。季節の挨拶いうんは、そのためにあるんよ。
帰り道、隣を歩く眼鏡が、いつもより半歩近い。
「今日は、近いな」
「警護上の必要です」
「図書室に、何の危険があるん?」
「……隣国の、王子がいます」
眼鏡の位置を直す指ぃに、妙に力が入っとる。
「十五の、病弱の子ぉやで」
「王子です」
真顔の横顔に「これ以上は答えません」て書いたある。……役人の「警護上の必要」は、便利な言葉やこと。
◇
王室調査記録 第十七報。対象、グランハルト公爵令嬢テレージア。対象は本日、留学中の隣国の第三王子に接触した。王子は対象の飴を拒否している。ただし侍従によれば、王子の会話は当地に来て最長を記録した由。対象は「季節の挨拶」の継続を予告した。本官は警護上の必要から、今後の接触にも立ち会う。警護上の必要は、実在する。実在すると、本官が判断した。以上。
――その晩や。
陛下の執務室の飴の小皿へ補充を届けた、その帰り道。離宮の脇の中庭を通りかかって、うちは足を止めた。
噴水の縁に、白い影がひとつ、小そう丸まっとる。
こんこん、こんこん、と。冷えた夜気の中に、乾いた咳の音が、途切れんと続いとった。




