仁科さんが断った日の配達
「今日は運ばない」
仁科さんは、いつもの車の鍵を俺に見せないまま言った。
「車に問題が?」
「ない。俺の用事」
それ以上を詮索する前に、昨日の道具の返却票が目に入った。仁科さんなしでも椀は戻ったのだ。なら今日の昼も、別の運び方を考えられる。
「分かりました。今日の依頼は出しません」
「困るだろ」
「困ります。だから他を探します」
彼はそこで初めて、肩の力を少し抜いた。断っても困られない、では嘘になる。困ると言って、相手の返事を取り消させなければいい。
音羽さんへ現地の手配状況を聞いた。地区の小型台車は、昨日の道具返却で二往復したばかりだ。今日の温食を五十三人分、同じように運べるとは限らない。
「使える車を確認します」と音羽さん。「ただ、食事の準備は車が決まるまで始めないでください」
「温度が落ちる前に運べるか、後で判断します」
藤森さんは食材の箱を閉じた。
「作り始めたら、みんな待つ。いま待つ方がいいね」
俺はその「待つ」という作業が苦手だった。火を入れれば仕事をしている気がしてしまう。だが、届くか分からない料理を先に作るのは、仕事のふりにしかならない。
◇
協力拠点の小さな搬送車が使えると返事が届いた。ただし運転担当は一便だけ、道も昨日確認された区間まで。住民は乗せず、食事の容器だけを運ぶ。
担当者自身が積み方と出発時刻を決め、藤森さんが仕上がりの時刻を合わせる。俺は到着先に受け取れる人がいるかを確認した。
「五十三食、全部?」
「調理場所で食べる住民の分は、こちらに残します。倉庫へ運ぶ分だけです」
車の担当が頷く。昨日の表をそのまま渡せば、ここで食べる人の分まで倉庫へ送ってしまうところだった。数を合わせるための紙を、実際の場所と突き合わせる。
朝から仁科さんの姿は見えない。音羽さんが別便を組んでくれたことで、彼がどこへ行ったのかをかえって確かめたくなった。本人の私用を、今日の配送の条件にしないと決めたばかりだというのに。
「聞かないの?」と神代さん。
「仕事の理由としては、要りません」
「それ以外なら?」
彼女は装備を締め直しながら、俺を見た。
「友人としては、心配です」
「じゃあ、帰ってきたら聞けばいい」
「はい」
同じ問いでも、昼の便を頼む前に聞くのと、仕事が終わってから聞くのでは意味が違う。神代さんは自分の経路確認へ向かい、俺は調理の場所へ戻った。
◇
倉庫の受け取り側から連絡が入った。指定した分を無事に受け取り、作業場所で食べる住民の分も手渡された。合計は五十三。外部作業者の食事は、また別の数だ。
食事が届いたあと、俺は協力拠点の運転担当へ、今日の便の終了を確認した。次も同じ車が来るとは限らない。返却は昼の容器を洗ってから地区の台車で運ぶと、三浦君が先に決めていた。
仁科さんから連絡が入ったのは午後だった。
「母さんと話してた。向こうで仕事を始めたってさ」
「そうですか」
「今日、俺がいなくて困った?」
「困りました。昼は届きました」
「なら、明日も俺に頼む前に聞けよ」
「もちろんです」
返事のあと、電話口で彼が笑った。母親が外で仕事を始めても、仁科さんが今日ここに残ることとは別の話だ。
昼食の受領票を閉じる。車一台分の空白は、誰かの予定を奪わずに埋められた。




