帰る人に、当番表は渡せない
久野さんの名前には、倉庫の配膳表で三本も線が引かれていた。
朝食を配る人。昼に椀を洗う人。夕方、翌日の食器を数える人。
「一日中いることになっていますね」
俺が言うと、久野さんは腕を組んだ。
「私が書いたんじゃないよ。みんな、いつも私がいるからってさ」
住民五十三人の一人だ。ここへ来てから食器の置き場を決め、二十人を見送った日にも最後まで椀を数えていたらしい。だから表の空白は、いつの間にか彼女の名前で埋まっていた。
「外へ出られる道が決まったら、娘の所へ行きたい」
「はい」
「まだ道はないんだろ」
「継続して住民の移送に使える道は、まだ確認できていません」
久野さんは頷いた。帰る意思を口にしただけで、今日の配膳を放り出したわけではない。それを知った途端、俺の頭は明日の欠員を計算していた。
藤森さんが横から表をのぞき込んだ。
「久野さん、明日も三つやるつもりだった?」
「私は、もう嫌」
はっきりした返事だった。道ができる前に仕事を降りる自由もある。
「今日の昼までなら」と久野さんが言った。「洗い方は教えるから」
俺は空くことになる三つの欄を見た。食事が止まる――そう思う速さが、他人の返事を遅くする。
「昼までをお願いします。その後の名前は、本人に聞いてから入れます」
◇
音羽さんは、久野さんの外部移動の希望を聞き取った。
「希望は記録します。ただ、現時点で出発日や受け入れ便は約束できません」
「分かってる。娘に、帰るつもりだって伝えてほしいんだ」
「連絡方法は確認します。先方の受け入れ条件も別に伺います」
食堂の当番表に、移動の可否を判断する欄はない。俺が「帰れるまで待ってください」と仕事を頼む筋合いもなかった。
藤森さんは洗い場に若い男性を呼んだ。久野さんが教えるのは、椀をきれいにする手順だけではなかった。
「欠けたのはここに置く。数が合わない時は、私を探さないで受け取った人に戻って聞いて」
「久野さんに聞けば早いのに」
「私がいない日にも、あんたは洗うんだよ」
彼は口を閉じ、それから水を替えた。洗い終えた椀を二人で数え、記録の数字と合わない一つを受け取り側へ確認しに行く。戻ってきたのは、別の棚へ置かれていた椀だった。盗難でも欠食でもない。ただ場所が違っていた。
俺ならすぐ倉庫中を探し回っていただろう。聞く相手を決めておけば、探す時間は短くて済む。
◇
昼食後、久野さんは濡れた手を拭き、表から自分の名前を一本ずつ線で消した。紙を破ったりはしない。
「もう人数に数えないで、ってことじゃないよ」
「食事の人数は五十三人のままです」
「そこは間違えないでね」
久野さんが笑う。倉庫を出る道が見つかるまで、彼女はここに住む。働かない時間にも食べる。俺は当たり前のことを、もう一度表に書き直した。
夕方の椀数えは、若い男性が自分で引き受けた。明日もやるかは明日聞く、と藤森さんが言う。まだ綱渡りだが、一本の名札に寄りかかって支えていた時より、ずっと正直な表になった。
音羽さんから、娘さんへ連絡がついたと報告があった。久野さんが帰るつもりだという言葉は届いた。道と日付の約束は、誰も足していない。
「明日は配らない。でも、晩飯は食べるよ」
久野さんは空いた椅子へ腰を下ろした。
「もちろんです」と俺は返した。
椀を渡すと、彼女はいつもより先に自分の分を食べ始めた。




