道を知っている人ほど、昨日の道を疑う
川向こうへ出た救助隊の無線が途切れた。
俺は鍋の蓋を手にしたまま、出入口の方を向く。音羽さんが連絡係へ確認を入れた。
「最後の位置は」
「旧橋の手前です。神代さんと消防二名」
三人が橋へ向かった。探しているのは四人。いま途絶えたのは救助側の声で、四人を発見したという報告ではない。
分かっている事実を頭の中で整理しても、無線は戻らなかった。
「水を届ける道はありますか」
仁科さんに尋ねると、彼は朝の地図を裏返し、見てきたばかりの道を紙の端へ描き出した。
「車は入れない。橋の先で道幅が変わった」
「橋の手前までなら、誰かが運べますか」
「俺が行く」
音羽さんが即座に制した。
「一人では出せません。後続の消防と一緒に向かってください。戻る時刻も決めます」
仁科さんは言い返しかけ、口を閉じた。
「分かった。車はここに置いていく」
俺は大きな水箱から小さな容器へ小分けにした。背負ったまま両手を空けられる重さにそろえる。仁科さんが自分で持ち上げ、一つ抜き取って床へ戻した。
「これ以上は邪魔になる」
「残りは次の便へ回します」
道を知る人ほど、自分の足を過信しない。俺が地図の上へ引く線より、ずっと信用できた。
◇
最後の椀を下げるころ、無線が戻った。
『住宅二棟で反応。報告の四人と照合中。一人は自力歩行が困難』
神代さんではない、隊員の声だった。
「場所を確認。四人の氏名は照合後」
音羽さんが紙へ書き留める。少年が告げた人数を、発見された人数と同じ欄へ写さない。似た数字であっても、確認できた事実はまだ別だ。
藤森さんが洗い終えた椀を伏せた。
「戻る人の分、湯にする?」
「水のまま残しておきます。熱いものが飲める状態か分かりませんから」
「じゃあ、こっちに置いて。鍋のそばじゃぬるくなるよ」
俺は水容器を移動させた。食事のことならいつでも俺が一番詳しい、などと言える場所ではない。
少年は待合席で空の椀を抱えていた。食べてくれた姿を見て少し安心した自分が、嫌になる。彼の叔母がいる場所は、まだ確定していない。
「もう一杯、要りますか」
「叔母さんが戻ったら」
俺は空の椀を受け取った。
「その時は温めますね」
必ず戻るとは言わなかった。言えない約束を、汁物の取り置きで埋めるつもりもない。
◇
九時を回ったころ、仁科さんが後続の消防隊員と戻ってきた。背負い袋の水は減っている。俺が容器の数を数えようとすると、彼は袋の口を押さえた。
「空き容器は向こうで使う。まだ貸し出しのままだ」
「では、こちらの在庫へは戻しません」
管理用紙に貸出中と書き添える。明朝の水を、その容器を当てにして計算しないためだ。
仁科さんはそこでようやく、肩から重い袋を下ろした。
「四人は見つかった。二人を先に医療へ引き渡した。残り二人は旧橋の向こうだ」
音羽さんが隊員の報告と突き合わせる。川向こうに残る二人には救助者が付き添い、水と携行食も行き届いていた。一人は脚を動かせず、暗い橋を担架で渡る安全な道が確保できないという。
少年の言った四人と名前が一致した。二人は地上側の医療へ、二人は川向こうで救助待機。ターミナルの七十四人は、七十四人のままだ。
「明朝まで水は持ちますか」
「現地担当が確認しています」と音羽さんが答えた。「不足するなら追加便を出します。真壁さんは、こちらの朝食をお願いします」
俺はうなずいた。気にかかる方へ仕事を広げ、目の前にいる七十四人の朝を疎かにするところだった。
藤森さんと米の残量を確認する。受け取れる水の量が変われば、炊ける量も変わる。使える一口の火で、朝に何を出すかを決める。
音羽さんは少年の前へ腰を下ろし、紙に分けた二つの欄を見せた。
「叔母さんは話せています。今夜は救助の人と一緒に向こうで待ちます。明るくなってからこちらへ移します」
「なんで、今じゃないの」
俺も同じことを考えていた。神代さんが抱えて運べばいい、と一瞬でも思いついた自分がいた。脚を動かせない人を、暗い橋でどう支えるのか。抱える側が足を滑らせたらどうなるのか。その先を考えていない思いつきだ。
少年の前で、それを口にしなくて本当によかった。
神代さんが戻ってきた。上着の袖が濡れている。彼女は俺より先に、少年の前で足を止めた。
「今渡ると、叔母さんが落ちるかもしれない。朝、道を見てから連れてくる」
「神代さんも行く?」
「行く。休んでから」
ようやく彼女の顔を見ることができた。
「水、ある?」
「あります。夕飯も少し」
「食べる」
俺は藤森さんから火口を一つ借り、神代さんの分を温め直した。鍋を見つめている間だけは、橋の向こうの二人を俺の手で運べないことを、考えずに済んだ。
鍋を火から下ろす。
考えないままには、しない。




