七十四人と、数えられていない人
受付表には、七十四と書いてあった。
その下に鉛筆で「ほかにもいる」。
数字の方は濃く、言葉の方は薄い。紙を持つ人の力が途中で抜けたように見えて、俺は先に数字の意味を聞いた。
「七十四人は、全員ここに?」
「旧バスターミナルです。氏名と今いる場所を照合しました」
答えたのは音羽梓さんだった。電話の声より疲れている。腕章をつけたまま、こちらの質問に一つずつ返してくれた。
「下の『ほかにも』は」
「報告だけです。人数は確定していません」
七十四の中へ推定分を足さない。だからといって、鉛筆の一行を消しもしない。
「真壁さんには、まず食事を見てほしいです。救助の優先順位は消防が決めます。中へは案内車両で入ってください」
「分かりました」
神代さんは俺の横で道を見ていた。
「さっきより狭い」
「通れますか」
「人は。車は一台ずつ」
通路を塞いでいるのが食材を積んだ俺の車なら、救急車を止めてしまう。俺の箱は三つに分けた。今夜使う物、明朝まで持つ物、使えるか確認が要る物。案内車が一度で運べなければ、最初の箱だけ持ち込む。
音羽さんが表示を見て、搬入係へ順番を伝えた。俺の箱だから俺の判断だけで通るわけではない。当たり前のことに、少し安心した。
運転席の男が振り向いた。
「仁科です。町で配送をしてます。右に古い塀が見えたら、まだ曲がらないでください」
斜面に塀など見えなかった。車へ乗ると、建物の影の中に端だけ残っている。
「塀が動くんですか」
「道の方。塀は残る。たぶん」
仁科さんは最後の一語を取り消さなかった。地元の運転手にも分からない場所へ来たのだ。
◇
ターミナルの待合室には、座席に収まらず毛布の上に座る人もいた。奥から湯を沸かす音がする。
炊事場では、女性が鍋の蓋を片手に持っていた。
「食堂の人?」
「真壁です。こちらの食事を作っている方ですか」
「藤森。今日はね」
藤森さんは紙を見せてくれた。卵を避ける人が二人。硬い物を食べられない人が一人。食事内容を医療へ確認している人が一人。
「条件だけ写してもいいですか。名前は現地の担当が照合する形で」
藤森さんが俺の端末と紙を見比べる。
「原本はここに置く?」
「はい」
俺が帰路亭へ戻っても、食べ方の情報まで町から持って帰らない。必要なのは今日の作業用の写しだけだった。
火口は二つ。ただ、片方は風で炎が傾く。藤森さんが使おうとしていた米も、今夜全部炊けば明朝の分がない。
「今夜は一口だけで組みます。水が確認できるまで、ここのおかゆは使いません」
「うん。米も残したい」
藤森さんは列を動かし、立って待てない人の椀を席へ運ぶ役を決めた。俺は鍋をかき混ぜる。ここでは彼女の方が、椀の行き先を知っている。
「椀は七十三」と彼女が言った。
「一人足りませんね」
「奥の席の人が断ってる。娘に電話したいんだって」
七十四人分の食事を用意することと、七十四人へ食べさせることは違う。音羽さんへ居場所を伝え、水なら受け取れるか、本人へ尋ねてもらった。
「温かい分は、取り置ける間だけ置きます」
「時間を過ぎたら?」
「作り直します。その時に、火と水があれば」
藤森さんが時刻を書いた。先のことまで確約しない人の字だった。
俺は持ち込んだ最初の箱を開け、表示を音羽さんに見せる。藤森さんは条件のある四人の配り方を、係へ伝えていた。店の厨房のように一人で皿を運ぶ方が、ここでは遅い。
出入口の神代さんは、戻った隊員から道の報告を聞いていた。俺の鍋番をしに来たわけではない。戻る道が閉じる前に、知らせる仕事がある。
◇
汁が配られ始めると、少年が列の横に立った。食札は持っていない。
「名前は?」と係が聞く。
「ここにはいません」
指したのは、自分ではなく外の方だった。
音羽さんが腰を下ろし、言葉を急がせずに聞いた。川向こうの住宅に叔母が一人、隣家に三人。少年は朝からこちらへ運ばれ、七十四人の名簿へ登録されている。携帯はつながらない。
「見たのは四人?」
「うん。でも、ほかの家は分からない」
音羽さんは七十四の横に四を足さず、別の欄へ場所と四人の名前を聞き取った。
「探す担当へ渡します。ここにいる人とは、別に確認します」
少年はほっとしなかった。ただ、名前の書かれた紙から目を離さない。
俺は彼に汁椀を差し出した。
「食べられますか」
「食べたら、迎えに行けない?」
「食べなくても、今は一人では行けません。話は救助の人へ渡しました」
椀を受け取ると、叔母を置いてきたことになる。そう思っている顔だった。俺の言葉で簡単にほどけるものではない。
神代さんが横へ来る。
「私が行く。場所をもう一度聞かせて」
音羽さんと消防へ出動の許可を確かめてから、少年の言葉を地図に移した。彼女の強さだけで、橋が渡れるとは限らない。それでも今、少年の言葉を持って行く人はいる。
奥の女性は、水を受け取ってから食事も欲しいと言った。藤森さんが温め直して渡し、俺は取り置き欄に印を付けた。用意した七十四人分と、実際に渡せた数は分けて残す。
列がなくなっても、少年の椀はまだ膝の上にある。
空いた鍋を洗って、水の残りを確かめた。神代さんたちが戻った時に飲む分も、ここに置く。




