町の南側が消えた日も、昼飯は届く
鯖の味噌煮が、昼の予約十一人分。
鍋をのぞく神代さんには、別の悩みがあるらしかった。
「おかわり、残る?」
「まだ朝です」
「昼の話」
「最初の一皿を食べてから決めてください」
彼女は不服そうな顔で湯呑みを流しへ運んだ。救助隊の定期訓練に行く前にも、食事の心配はできるようになった。三年前なら、空腹のまま訓練を終え、帰り道で膝をついていたかもしれない。
いや、そこまで酷かったかは本人に確認していない。勝手に過去を盛ると怒られる。
「十時半には戻る」
「昼に間に合いますね」
神代さんは自分の鍵で戸を開けて出た。帰路亭の店番を頼んだわけではない。帰ってきた時に、俺が裏の仕込み場にいても入れるように渡した鍵だった。
俺も椅子に座り、朝飯を食べた。
新しい店を開けて三年。隣の休憩所には市の相談窓口があり、記録の原本も担当者もそこにいる。俺が鍋から離れたら町の仕事が止まる、という以前の仕組みはもうない。
その状態を守るのも、俺の仕事だった。
十時二十分、奥村さんから電話が来た。
『朝霧町で地形の異常です。市から、応援の照会が来ています』
朝霧町まで車で三時間ほど。こちらの町に被害は確認されていないという。奥村さんは分かっていることだけを順に話した。
「神代さんには?」
『訓練先へ救助隊から連絡が入りました。現地へ出るかは、向こうの判断です』
俺の鍋には、十一人分の昼飯がある。五つは弁当で、受取人と時刻も決まっていた。
自分にできることを数える前に、いま手元で失わせるものを数えた。消防士でも医師でもない俺が駆けつけて、昼食だけ十一人分消えたのでは、助けたことにはならない。
店の戸が開いた。
神代さんが訓練着のまま帰ってくる。早足だったが、息は乱れていなかった。
「現地へ行く。入域の許可は、まだ」
「こちらの昼食は出します」
「うん。食べてから行ける?」
俺が彼女にするはずだった質問を、先にされた。
「俺も、ここを引き継いでからですね」
「分かった」
端末に届いた写真を見せてもらった。住宅の屋根が灰色の斜面から出ている。道路標識は立ったまま、その先の道だけがなかった。
「町全体が、こうなったんですか」
「南側の一部。広さはまだ調べてる」
写真一枚で現象の名前を決めるほど、俺たちは若くない。
「先に行くね」
「承知しました。こちらが終わったら、行けるか確認します」
神代さんは少しだけ立ち止まった。
「一緒に来てほしい。でも、ここの人を待たせてまでじゃない」
仕事の順番を尊重された。だから、こちらも彼女の仕事へ無理な約束をしなくて済む。
俺は鯖を皿へ盛った。神代さんの分は、最初から二切れにした。
「それ、おかわり扱い?」
「出発前の前払いです」
「何の?」
「帰ってきた時の昼食です」
言ってから、少し違うと気づいた。無事に帰ることを食事の対価にはできない。
彼女は二切れとも食べ、皿を俺へ渡した。
「じゃあ、帰ってきたら別のものを頼む」
「その時の献立で」
約束できるのは、そこまでだ。
◇
昼の客には予定どおり料理を出した。弁当五つは、注文した人へ直接渡した。
午後からの臨時休業を入口に掲示し、明日の予約客へ連絡する。相談が必要な人には隣の窓口を案内した。貼り紙一枚で全部が済むなら苦労はしないが、閉まった戸の前で立ち尽くす人は減らせる。
午後一時、朝霧町の担当者から電話が来た。
『音羽です。現地の食事と移送計画について、助言をお願いできますか』
「食べる人数の根拠と、水や火を使える場所、それから搬入できる車両を教えてください」
『まだ、どれも確定していません』
正直な返事だった。
『旧バスターミナルに住民が集まっています。登録できていない人もいるので、人数を取り直しています』
「未確定のまま記録します。現地で確認させてください」
『来ていただけますか』
「こちらの引き継ぎを終えたら向かいます。到着までに、入れる場所と担当者を知らせてください」
隣の窓口が俺の代わりに店を開けるわけではない。調理補助の人へは、仕込み後の片づけと仕入れ先への連絡だけを頼んだ。営業の再開は俺が帰ってから決める。できることと引き受けないことを、先に二人で確かめた。
車には空の保冷箱、手洗い用品、食事条件を確認する用紙を積んだ。鍋も米も、まだ積まない。現地の水と火を見てからでなければ、食材はただの重い荷物になる。
神代さんから『入域待機。外側で合流できる』と連絡が入った。
『こちらは引き継ぎました。これから出ます』
返事を送って、入口の札を裏返す。
車を出して一時間ほどで休憩所に寄り、水を飲んだ。俺まで食事を抜いて現地へ着けば、使える手が一組減るだけだ。
朝霧町の外縁には、日が傾く前に着いた。
規制線の向こうに、写真の斜面が見える。救急車と配送車が何台も並んでいたが、境界を通る順番は決まっていない。積み荷の行き先が分からない車が一台止まるだけで、救急車も動けなくなる幅だった。
神代さんが内側から戻ってきた。
「ターミナルには人がいる。道は、朝より狭くなった」
「戻る道は?」
「今は一本。次も同じかは分からない」
彼女が無事に戻ったことへ息をついてから、俺は受付表を見た。人数の欄には数字がなく、確認中とだけ書いてある。
今日の昼は、ここでももう終わっている。次の食事までには、まだ少し時間がある。
「まず、今夜食べる場所と人数を教えてください」
自分の店で作った料理は持ってこなかった。だからこそ、この町で作る一杯を、ここにいる人と決められる。




