迷宮は、置いてきた仲間の名前を消す
人の名前を忘れる症状はある。
その人のために席を空け、荷物を守り、水まで用意してから、名前だけを忘れる症状は聞いたことがなかった。
「器質的な異常は見つかりません」
医療班の医師は、白峰隊三人の簡易検査結果を並べた。
「現時点では、です。脳出血、急性中毒、重度の魔素障害を示す値はない。意識は清明。長期記憶と、入域直後までの記憶も保たれています」
「午前五時九分から六時十四分だけがない」
水城さんが言う。
「その時間に知った人間も」
四つ目のコップは、まだ空席にある。
医師は橙色の試験帰還札を見た。
「羽鳥さんと会ったこと自体を思い出せない。一方で、動作と情動には痕跡が残っている。医学的な診断名を、いま付けることはできません」
「治りますか」
黒瀬さんの問いは短かった。
「分かりません」
店内の空気が沈む。
分からない、と言う人間は信用できる。
信用できる答えが、役に立つとは限らない。
「ただし、三名とも同じ時間帯に同じ欠損がある。偶然や疲労だけでは説明しにくい。迷宮内で共通の要因へ曝露したと考えます」
「五時二分の濃度上昇」
水城さんが測定端末を開く。
「五時九分に上限を超えて、その後は記録なし。六時十四分、通常値の一・四倍まで下がって再開しています」
「上限を超えたら、端末は停止するんですか」
宮前さんが聞いた。
「いいえ。測定値を固定して警報を出します。記録そのものが消える仕様ではありません」
「人間と機械が、同じ時間を忘れた」
八代さんがつぶやく。
腕時計へ触れる手が、今度は止まらなかった。
「深層晶の高密度脈動」
「知っているんですか」
神代さんの声が低くなる。
「言葉だけは」
八代さんは革鞄から会社端末を出した。
「深層技術室が、測位誤差を生む現象として報告していました。人体影響については、正式な共有を受けていません」
「正式ではない共有は?」
「質問の仕方が会社員ですね、真壁さん」
「元です。悪い技能だけ残りました」
八代さんは否定しなかった。
「試験計画の予算申請に、認知補助という費目がありました。担当室からは、脈動時の方向感覚低下を補う機器だと説明されています」
「それが、この札?」
神代さんが橙色の札を指す。
「形式は同じです」
八代さんは端末を操作した。
社内認証。
権限確認。
画面に赤い警告が二度出る。
「アクセスできません」
「室長代理でも?」
「部署が違えば、会社は外国より遠いことがあります」
「便利な国境ですね」
「ええ。事故のときだけ消えます」
八代さんは端末を伏せた。
諦めたようには見えない。
いま取れない情報を、取れたふりで埋めないだけだ。
「会社の回答を待つ時間はありません」
俺は羽鳥の紙地図を広げる。
「この人の残したものから追います」
紙は、電子端末ほど多くを記録できない。
電池も検索機能もない。
その代わり、魔素が濃くても、鉛筆で書いた線を勝手に消さない。
地図の中央には、第4層西回廊。
行政図では壁の先に、羽鳥が見つけた細い経路がある。換気井へ向かう線だ。
線の途中へ、小さな丸が四つ。
同じ印は、携行食の包装にもあった。
「四人の位置?」
黒瀬さんが地図へ顔を近づける。
「おそらく」
「なぜ名前ではなく丸を」
「名前を忘れると知っていたから」
水城さんが答えた。
自分の言葉に、本人が息を止める。
羽鳥は現象を知っていた。
少なくとも、予想していた。
地図の余白に、細かな走り書きがある。
脈動後、固有名詞から落ちる。
人数を声に出す。
紙を見る。
自分を信用しない。
「ずいぶん嫌な手順書ですね」
宮前さんが言う。
「正しい手順書は、読む人間を少し不安にします」
「安心させるために書くものでは?」
「安心した人間は、省略します」
六年前、俺の撤退基準は臆病すぎると言われた。
事故のあとでは、不十分だったと言われた。
安全手順の評価は、読む側が帰ってきたかどうかで変わる。
「この四つの丸は、移動しています」
俺は紙を時刻順に並べる。
一枚目、5:09。
四つの丸は西回廊。
二枚目、5:27。
細い経路の入口。
三枚目、5:51。
換気井の手前。
最後、6:14。
三つの丸だけが北側階段へ続いている。
一つは換気井に残っていた。
「羽鳥さんだ」
堂前さんが言った。
「断定はまだです」
「でも、背嚢を渡した声がある」
「そうですね」
「命綱も切った」
「その可能性が高い」
「なら」
堂前さんの大きな手が震えた。
「俺は、置いてきた」
「違う」
神代さんが即座に言う。
全員が見る。
「覚えていないことを、自分に都合が悪い方だけ決めるな」
堂前さんは言葉を失った。
「真壁もさっき言った」
「引用料をいただきます」
「朝定食一回」
「安いですね」
「常連価格」
神代さんは堂前さんへ視線を戻す。
「置いてきたか、先に帰されたか。まだ分からない」
自分が二人を置いて帰った夜を知る声だった。
短くても、届く。
「音声を、もう一度処理できます」
水城さんが言った。
「欠けた部分は戻せません。でも、同じ受信機が複数帯域で重ねて記録していたなら、別の帯域に残っているかもしれない」
医師が手を見る。
「震えています」
「操作はできます」
「あなた一人では、させません」
宮前さんが市の技術職員を呼んだ。
「指示だけしてください。操作はこちらで記録します」
水城さんは一度目を閉じ、うなずいた。
受信機の記録素子から、三つの音声帯域を取り出す。
一つは雑音。
一つは石の破砕音。
最後の一つへ、声が薄く残っていた。
波形を重ねる。
最初の音声が戻る。
『羽鳥。聞こえる?』
女の声だった。
水城さんの声だ。
本人は、自分の声を知らない人のもののように聞いている。
『聞こえる。名前はどうでもいい。紙を見て』
軽い調子の返答。
石が崩れる。
『黒瀬さん、盾を横へ。水城さん、数値を読まないで。丸を数えて。堂前さん、私の背嚢を持って』
白峰隊の三人が、同時に顔を上げた。
名前を呼ばれても、思い出せない。
それでも、身体はその指示に従って地上まで帰った。
『一緒に来い』
黒瀬さんの声。
『換気井の留め具が戻る。誰かが押さえないと、三人とも通れない』
『なら俺が残る』
堂前さん。
『あなたが残ったら、誰が三人分の荷物を持つの』
『四人分だ』
『そう。それを忘れないで』
羽鳥の声に、笑いが混じっていた。
切迫した場面で笑える人間は二種類いる。
余裕があるか、余裕がないと悟らせたくないか。
羽鳥は後者だった。
『札も持って。私が忘れても、あなたが忘れても』
大きな破砕音。
第7話で欠けていた部分が、別の帯域から戻る。
『四人いたことを、置いていかないで』
命綱を切る音。
黒瀬さんの怒鳴り声。
三人分の呼吸が遠ざかる。
最後に、羽鳥の独り言が残っていた。
『さて。私は、誰を逃がしたんだっけ』
そこで音声は終わった。
誰もすぐには話さなかった。
水城さんが空席のコップへ水を足す。
「生きている」
黒瀬さんが言う。
「そう信じたい、ではなく?」
「生きている前提で動きます。隊長として」
初めて、不確かな言葉を避けなかった。
「救助隊を出してください」
宮前さんへ向く。
「現場再入域は、国の監督官と消防の承認が必要です。三名には認知症状がある。すぐ許可は」
「俺たちが道を知っています」
「覚えていないでしょう」
「身体が覚えている」
「それを安全根拠にはできません」
正しい。
正しい言葉同士がぶつかると、時間だけが減る。
「紙を使います」
俺は羽鳥の地図を指した。
「白峰隊の身体感覚だけにも、電子記録だけにも依存しない。羽鳥さんの紙地図、地上からの時刻管理、有線の帰還線を組み合わせます」
「真壁さんは入るつもりですか」
「入りません」
神代さんがこちらを見る。
「意外」
「俺の魔素適応では、同じ脈動を受ければ指揮系統が一人増えるだけです」
「じゃあ、誰が」
「地上で帰路を維持します」
前回は、自分が入らなければ誰も帰せないと思った。
今回は違う。
入る人間へ仕事を渡す。
それも兵站だった。
八代さんの端末が鳴った。
画面には、先ほどまでなかった文書が開いている。
「どこから」
宮前さんが聞く。
「試験札の保守領域です。会社のサーバーではなく、札本体に緊急手順が残っていました」
八代さんは画面を公的端末へ向けた。
試験番号、C4-MN。
高密度脈動時、電子記録の欠損および曝露中に形成された記憶の定着阻害。
症状発生時は、紙媒体の指示へ切り替える。
単独行動者は、次回脈動前に退避する。
「人体影響を、知っていた」
宮前さんの声が硬くなる。
「深層技術室は」
八代さんは、自分の会社名を言わなかった。
紙地図の最後には、脈動の間隔が計算されていた。
5:09。
前回観測値から十二時間五分。
次回予測、17:14。誤差二十分。
換気井の留め具は、脈動に合わせて閉じる。
羽鳥へ通じる細い経路ごと。
時計は午前九時四十二分。
最も早ければ、午後四時五十四分。
「あと七時間十二分」
水城さんが言う。
「準備を一時間で終えます」
俺はホワイトボードを客席の中央へ戻した。
一週間前に、四人分の名前を消した板だ。
新しく五人分の欄を引く。
入域、四。
帰還予定、五。
最後に、締切を書く。
午後四時五十四分。
羽鳥澪の名前を、今度は消すためではなく、迎えに行くために書いた。




