三人分の装備に、四人分の泥がついていた
知らない人間の荷物は、持ち主の名前より先に扱い方を教えてくれる。
薄緑の背嚢は、堂前さんの右手から離れたがっていなかった。
「その人を、本当に知らないんですか」
俺の問いに、白峰隊の三人は答えられなかった。
知らない、と言ったのは数分前だ。
それでも堂前さんは、羽鳥澪の背嚢と自分の椅子の間へ足を置いている。誰かが持ち去ろうとすれば、立ち上がる前に止められる位置だった。
黒瀬さんは、三人分の帰還札と橙色の試験札を交互に見る。
水城さんは、空席の水を下げなかった。
頭は三人だと言っている。
身体は、四人目を守っていた。
「記憶にありません」
黒瀬さんがようやく答えた。
「ですが、俺たちがこの人と行動した可能性は認めます」
「可能性では困ります」
宮前さんの声が入口から飛んできた。
灰岳市の腕章をつけた医療班二名と、証拠保全用の箱を持った職員が続く。電話をしてから十分も経っていない。
「呼ばれて十分で来る行政は、少し怖いですね」
「迷宮の目の前に待機していました。褒めるなら配置計画を褒めてください」
「褒めています」
「真壁さんの顔は、褒めているときも報告書の不備を見つけたときも同じです」
「便利でしょう」
「周囲には不便です」
宮前さんは言い切ってから、四つ目の帰還札を見た。
表情が消える。
「羽鳥澪。東都開発の名簿にもいないんですか」
「事業戦略室には」
八代さんが答えた。
「深層技術室へ照会しています。返答はまだです」
「会社の札ですよね」
「ええ。だから、私もここに残っています」
八代さんの腕時計は、先ほどより二ミリほど高い位置に直されていた。
本人が認めるかは知らないが、かなり動揺している。
「先に三名を診ます」
医療班が黒瀬さんたちへ簡易検査を始めた。
瞳孔、脈拍、血中魔素濃度、受け答え。水城さんの指の震えと耳鳴り、黒瀬さんの頭痛、堂前さんの自覚症状なし。
最後の項目が一番信用できない。
「堂前さん。朝食をどれくらい食べました」
「まだ手をつけていません」
「自覚症状を一つ追加します。判断力低下」
「隊員が先なので」
「全員同時に食べられるよう、椅子という設備があります」
堂前さんは反論せず、塩むすびを一つ取った。
それでも視線は、薄緑の背嚢から外れない。
宮前さんが手袋をつける。
「本人不在ですが、人命確認を優先します。外側から記録し、開封は必要最小限。真壁さん、装備の見方を手伝ってください」
「承知しました」
「神代さんは」
「見る」
「役割を聞いています」
「護衛」
帰路亭の店内で、国内Sランクの護衛が必要になる事態はあまり想定していない。
八代さんがいるので、まったく不要とも言い切れなかった。
「触らないでください」
「分かってる」
「燃やさないでください」
「それは買収提案書」
用途で放火対象を分けないでほしい。
黄色線の内側へ白いシートを敷く。
黒瀬さんの大型盾。
水城さんの測定板と腰鞄。
堂前さんの大型背嚢。
そして、羽鳥澪の薄緑の背嚢。
四人分の装備を並べると、三名という報告の方が間違いに見えてくる。
まず外側の泥を採る。
灰岳迷宮の泥は、層によって色が違う。
第1層は赤茶。
第2層は菌糸を含んだ白。
第3層は鉄分の多い黒。
第4層の西側だけは、青灰色の粘土が混じる。
黒瀬さんの盾の下端に、青灰色の泥。
水城さんの外套の裾にも同じ色。
堂前さんの膝当てには、乾いて薄く割れた跡。
「第4層西回廊にいた証拠にはなります」
宮前さんが採取袋へ入れる。
「四人目の証拠にはなりませんね」
「まだです」
堂前さんの大型背嚢を横へ倒す。
底面に、黒い泥で半分だけ残った靴跡があった。
堂前さんの靴底より小さい。
水城さんのものとは溝の形が違う。
黒瀬さんの探索靴は、盾を構えるため踵が広い。これも一致しない。
薄緑の背嚢の側面には、同じ細い格子の跡が二つ。
「誰かが、この二つを踏み台にした」
神代さんが言った。
「そう見えます」
「上へ?」
「または、上から降りるために」
俺は泥の向きを見る。
堂前さんの背嚢では、爪先が上を向いている。
薄緑の背嚢では逆だ。
一度登り、一度降りた。
細い格子の靴底を履いた、小柄な人間が。
「私の靴ですか」
水城さんが自分の足元を見る。
「違います。水城さんは踵の外側が減っている。こちらは左右均等です」
「そこまで見ます?」
「補給係は、靴底が減った人間へ予備を持たせる仕事です」
「飲食店ですよね、ここ」
「最近、業務範囲が迷子です」
帰還支援所の指定書に、靴底鑑定とは書いていない。
書いていない仕事ほど増える。
宮前さんが靴跡へ定規を当てた。
「二十三・五前後。羽鳥さんの登録情報に装備サイズは?」
八代さんが端末を見る。
「試験札にはありません。社員名簿にも、まだ照合が」
言葉が止まった。
画面に着信が出ている。
「深層技術室ですか」
「総務管理部です」
八代さんは通話を受け、所属と氏名を告げた。
「試験帰還札、識別番号HTR-04。使用者は羽鳥澪。契約区分と入域承認者を照会します」
数秒。
八代さんの目が細くなる。
「存在しない、とはどういう意味ですか」
店内の音が止まった。
「札がここにあります。使用者は未帰還です」
相手の声は聞こえない。
「回答拒否として記録します。ええ、私の権限で」
通話が切れた。
「何と?」
宮前さんが尋ねる。
「識別番号は欠番。羽鳥澪との契約記録は存在しない、と」
「では、この札は」
「偽造品だそうです」
八代さんは橙色の札を見た。
「深層技術室の暗号署名つきの偽造品です。ずいぶん社内事情に詳しい犯人ですね」
皮肉の温度が俺より低い。
よく冷えている。
「会社が消そうとしている?」
神代さんが聞く。
「まだ断定はしません」
八代さんは腕時計へ触れかけ、手を止めた。
「ただし、事業戦略室の記録だけへ預けるつもりもなくなりました」
宮前さんが橙色の札を公的端末で撮影する。
一つの記録が増えた。
今度は、会社の中だけでは消せない。
薄緑の背嚢を開く。
上段に、空の水筒。
救急包帯。
細い金属杭が八本。
防水紙の束。
携行食は六本入りの箱が二つ。片方は未開封。もう片方には一本だけ残っている。
「五本食べた?」
水城さんが言う。
「一人で七時間なら多いですね」
「でも、私たちの食料は」
白峰隊の三人が、自分たちの背嚢を見る。
堂前さんが大型背嚢を開いた。
三名分として用意された高熱量食が、予定より四本少ない。
羽鳥の箱から五本。
合計九本。
「四人で分けたなら、一人二本。余り一」
俺は薄緑の背嚢に残った一本を見る。
外装へ黒い油性ペンで、短い線が四本引かれていた。
「人数を忘れないようにした?」
水城さんの声から、数値が消えている。
「そうかもしれません」
断定はできない。
ただ、知らない人間の食料を三人で食べる理由は少ない。
知らない人間の食料を、四人分に分けた跡が残る理由はもっと少ない。
「私たちは」
黒瀬さんが拳を膝へ置いた。
「この人に食料をもらったんでしょうか」
「逆かもしれません」
堂前さんが言う。
塩むすびは半分のところで止まっている。
「俺が食わせたのかもしれない」
「覚えていますか」
「いいえ」
「では、決めつけないでください」
俺は高熱量食を袋へ戻す。
「罪悪感は、欠けた記憶を都合よく埋めます。いま必要なのは、誰が悪かったかではなく、誰がどこにいるかです」
堂前さんがうなずく。
肩の力は抜けなかった。
次に、切断された命綱を見る。
太さ八ミリ。荷重表示は一・二トン。
断面は潰れず、斜めに滑らかだった。引きちぎれたのではない。刃物で切られている。
反対側の金具には、黒瀬さんの盾と同じ黒い塗料が付着していた。
「俺の盾へ結んだ?」
黒瀬さんが金具を見る。
「おそらく」
「なぜ切った」
「引かれたからでしょう」
全員の視線が俺へ集まる。
「構造変動で足場が崩れた。四人を一本でつないだ。三人が安全側へ渡ったあと、残った一人が綱を切った」
「残った一人」
堂前さんが低く繰り返す。
「羽鳥さんが切ったとは限りません」
「でも、背嚢と札はこっちにある」
神代さんが言う。
そうだ。
帰還確認に必要な札を他人へ渡し、食料と救急品の入った背嚢も手放した。
自分が地上へ戻るつもりなら、しない。
「私たちを先に渡して、向こうに残った」
水城さんが空席を見る。
「私は、その人へ水を置いた」
「身体が覚えている可能性があります」
「頭は、忘れたのに」
「だから、両方を記録します」
宮前さんが答えた。
「覚えていないことも、覚えていない人のために水を置いたことも」
水城さんは四つ目のコップを両手で包んだ。
「端末にも、一枚だけ残っています」
水城さんが測定端末を開いた。
欠損が始まる一分前、午前五時八分の自動保存画面。
生体反応を示す青い点が、四つ表示されている。
「調査隊の登録は三名です。外部救助者を検出したときだけ、点が追加されます」
「午前五時九分に記録が消える直前まで、機械も四人を見ていた」
宮前さんが画面を公的端末へ保存する。
次の一分で、端末も人間も四人目を失った。
薄緑の背嚢の底には、折り畳まれた紙地図があった。
公式調査図ではない。
鉛筆で岩の割れ目、空気の流れ、足場の高さが細かく書き込まれている。第4層西回廊の先、行政図では壁になっている場所へ細い道が伸びていた。
終点に、丸。
その横へ短く書かれている。
換気井。上向きの風。
「羽鳥さんの字でしょうか」
「登録資料がないので、照合できません」
八代さんが言う。
紙の右端に、別の筆圧で数字が並んでいる。
5:09。
5:27。
6:14。
水城さんの端末から消えた時間と一致した。
「生きている可能性は」
黒瀬さんが聞く。
「分かりません」
俺は答えた。
分からないことを早く埋めると、人数が減る。
「ですが、残った場所は絞れます」
換気井。
第4層西回廊の構造変動の向こう。
羽鳥の食料と水は、こちら側にある。
生存しているなら、残された時間は長くない。
「無線は」
神代さんが薄緑の背嚢の内側を指した。
縫い目の奥に、平たい受信機が挟まっている。
外装は割れ、電源は落ちていた。
水城さんが身を乗り出す。
「私の測定板と同じ短距離規格です。端末の欠損領域に、受信履歴だけ残っています」
「再生できますか」
「壊れています」
水城さんは受信機を見つめた。
「でも、記録素子が無事なら」
「分解は行政の記録下で」
宮前さんが言う。
工具を持ってくる。
水城さんの震える指ではなく、職員が外装を開いた。端子を公的端末へ接続する。
雑音。
途切れた呼吸。
石が擦れる音。
最初の音声は、名前にならなかった。
『……とり。聞こえ……紙を、見て』
黒瀬さんが立ち上がる。
「この声を」
「座ってください」
「知っている気がする」
「気がする、で立つと転びます」
黒瀬さんは盾へ手を伸ばしかけ、椅子へ戻った。
音声は続く。
『堂前さん。背嚢と札を……持って』
堂前さんの手から、塩むすびが落ちた。
自分の名前。
知らない女の声。
『私が忘れても……あなたが忘れても……』
大きな雑音が入り、数秒が欠ける。
最後に、声だけが戻った。
『……置いていかないで』
再生が止まる。
誰を。
何を。
答えは、壊れた無線の中にも残っていなかった。




