買収提案には、朝食をつけません
買収の話を持ってくる人間は、たいてい食事を注文しない。
その日の客は、注文より先に非常口を見た。
「東都迷宮開発、本社事業戦略室の八代佳澄です」
女は名刺を両手で差し出した。
炭色のパンツスーツ。低い位置でまとめた黒髪。薄い革鞄には、端末と同じ厚さの紙資料が入っている。
非常口、救急箱、厨房、客席数。
俺と目が合ったのは、そのあとだった。
店ではなく、店が止まる条件を見ている。
「真壁修司です。先ほど、御社から書類も届きました」
「到着が予定より早かったようですね」
「御社には珍しい」
「耳の痛い話から始めますか」
「朝は胃に重い話を避けているので」
午前六時二十五分。
帰路亭は開店したばかりだった。
カウンターの端では、神代さんが焼き鯖を食べている。数分前まで買収提案書を燃やす方法を検討していた人間とは思えない落ち着きだった。
なお、検討していたのは神代さんだけである。
俺は放火を検討していない。
八代さんがカウンター中央へ座る。
「お茶をいただけますか」
「朝定食もあります」
「結構です。話が済めば、すぐ本社へ戻ります」
やはり食べない。
「買収提案には、朝食をつけません。お茶は店からです」
「合理的ですね」
「食事代と土地代を、同じ請求書へ載せないだけです」
湯飲みを置く。
八代さんは一口だけ飲み、革鞄から契約書を出した。
土地と建物の取得。
帰路亭という店名と営業形態は維持。
俺を本社直属の帰還支援責任者として雇用。
改装費、運営費、救護設備、職員三名分の人件費を会社が負担。
金額欄には、今朝見た数字が並んでいる。
個人店の主人が夢に見る条件だった。
少なくとも、業務用冷蔵庫の値札を思い出す程度には魅力がある。
「御社が欲しいのは、この土地ですか」
「土地だけなら、隣の旧管理棟を取得します」
「では、指定書」
壁に掲げた、民間帰還支援所の指定書を見る。
「それも価値の一部です」
「残りは」
「あなたです」
神代さんの箸が止まった。
俺は止めなかった。
交渉相手が人間を褒めるときは、金額を下げたいか責任を増やしたいかのどちらかだ。
「六年前の事故と、今回の救助記録を拝見しました」
八代さんが続ける。
「真壁さんの補給計画、撤退基準、現場記録には再現性があります。帰路亭へ設備と人員を追加し、当社の全探索隊へ同じ基準を導入したいと考えています」
「その記録を六年前に採用していれば、買収費用も安く済みましたね」
「会社の事実認定に誤りがありました」
「謝罪文と一字一句同じです」
「違う言い方をすれば、誠意が増しますか」
八代さんは目をそらさない。
榊原のように、柔らかな言葉で人間を包んで捨てる話し方ではなかった。必要なものを必要だと言い、払う金額まで出す。
だから、むしろ断りにくい。
「買収後、帰還者の記録は誰が管理します」
「東都開発の安全管理基盤へ統合します。行政には、法令上必要な範囲を共有します」
「食事だけの客も?」
「探索者であれば、健康状態と装備相談の記録は安全管理に有用です」
「本人が御社と契約していなくても」
「安全は所属で分けるべきではありません」
「記録も、でしょう」
八代さんの指が、紙の端で止まる。
六年前も、記録は会社の基盤に集められた。
集められたあと、誰の判断だったかが変わった。
「会社が管理するから危険だと?」
「会社だからではありません。食事をしただけの人間まで、知らないところで会社の資産になる設計が危険です」
「では、善意で運営される個人店へ救助情報が集中する方が安全だと?」
「善意では運営していません。原価と手順で運営しています」
「人員は一名。客席十八。あなたが倒れれば、機能は止まる」
正しい。
帰路亭の最大の単一障害点は、店主である。
飲食店としても帰還支援所としても、笑えない構成だった。
「一名ではない」
神代さんが焼き鯖から顔を上げた。
「神代さんは従業員ではありません」
「常連一号」
「障害時の代替要員には数えません」
「戦える」
「料理は」
「しない」
「そこは安心しました」
八代さんが腕時計の位置を直す。
「人員を増やす必要は、認めるのですね」
「はい。だから、人を出す話なら聞きます。所有権と記録の管理権は渡しません」
「予算と人員だけ出せと?」
「御社の再発防止への熱意を信じています」
神代さんが味噌汁の椀で口元を隠した。
笑っている。
「真壁さん。善意を疑っているのではありません。善意に依存する設計を疑っています」
「同感です。俺は、会社が今後ずっと正しいことにも依存したくない」
「平行線ですね」
「線が残っていれば、あとで照合できます」
八代さんが初めて、わずかに息を吐いた。
「今日、返答をいただくつもりはありません。断る場合も、代替案を文書でいただければ検討します」
「断ったら、民間帰還支援所の指定に異議を出しますか」
「出しません」
即答だった。
「事故のあとで救助拠点を潰せば、世論上の損失が大きすぎます」
「安心しました。人命も入れておいてください」
「もちろんです。世論の次に」
神代さんが八代さんを見る。
二秒後、焼き鯖へ戻った。
「嫌いじゃない」
「それはよかったです」
「好きでもない」
「交渉としては適切な位置です」
店の外で、短い警笛が鳴った。
続いて、砂利を踏む複数の足音。
俺は時計を見る。
午前七時十二分。
予定より十八分早い。
昨夜零時十分、灰岳迷宮へ安全性再調査の第一班が入った。
国の監督官が許可した、第4層までの構造確認。入域者は三名。予定帰還は午前七時三十分。帰還後の状態確認と食事を、帰路亭が受け持つ。
三名分の豚汁と塩むすびは、用意してある。
早い帰還には、二種類ある。
順調だったか、続けられなくなったか。
扉が開いた。
最初に入ってきた男は、折り畳み式の大型盾を背負っていた。
短い茶髪。左頬の傷。黒い中装甲には、白い山形の隊章。
独立探索隊、白峰隊。
隊長の黒瀬直人。Aランクの防御探索者だ。
続いて、青い防塵外套の水城美奈。術式解析士。
最後に、二つの背嚢を背負った大柄な堂前豪。
三人。
事前名簿どおりだった。
「お帰りなさい。装備は床の黄色線より内側へ。座る前に、氏名と人数を確認します」
「白峰隊、黒瀬直人」
「水城、美奈です」
「堂前豪。三名、全員帰還しました」
三名とも自力歩行。
目立つ出血なし。装甲の破損は軽度。呼吸数は高いが、七時間の迷宮行動後なら異常とは言い切れない。
ただし、黒瀬の左足が半歩遅れる。
水城の指先には、細かな震え。
堂前は、二つの背嚢を下ろそうとしない。
「三名ですね」
「はい」
黒瀬の返事は、確認というより訂正に近かった。
俺は黄色線の内側へ、防水トレーを三枚出す。
「武器と帰還札を置いてください。吐き気、頭痛、視界のちらつきは」
「軽い頭痛だけです」
黒瀬が盾の留め具を外す。
「私は耳鳴りが少し」
水城が測定板を腰鞄から出した。
「自分は問題ありません」
堂前だけが背嚢を下ろさない。
「問題がない人間ほど、最初に荷物を下ろしてください」
「これは」
堂前が右肩の小さい背嚢を見る。
自分の灰色の大型背嚢とは違う。薄緑色。容量は三十リットルほど。肩紐は、堂前の体格では腕が通らない長さに調整されている。
「共同装備です」
黒瀬が言った。
「何が入っています」
「経路標と、予備食料のはずです」
「はず?」
黒瀬の眉が寄る。
「……出発前の分担を、確認します」
「思い出してから答えなくていいです。まず座ってください」
三人をカウンターへ案内する。
神代さんは一番端から動かず、空いた席を見ていた。
黒瀬、水城、堂前の順で座る。
一席空けて、その隣に八代さん。
水城が卓上の水差しを取った。
コップを一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
四つ目を空席へ置いてから、手が止まった。
「すみません」
水城はコップを下げようとする。
「そのままで」
「人数は三人です」
「分かっています。手が震えているので、先に座ってください」
豚汁を三椀。
塩むすびを六つ。
焼き鮭と漬物。
運ぶ間も、三人の視線は一度ずつ空席へ動いた。
誰かを見ているのではない。
誰もいないことを確かめている。
「真壁」
神代さんが低い声で呼ぶ。
「何です」
「あの三人、三人で歩いてない」
店へ入ってきたときの隊列を思い返す。
黒瀬が先頭。水城が中央より少し左。堂前が後方。
水城の右側には、一人分の空間があった。
「隊列の癖では」
「だったら店の中で詰める。誰も、その席へ座らない」
戦闘の強い人間は、敵の位置だけを見ているわけではない。
味方がいるはずの場所も見ている。
俺は三人の前へ戻った。
「黒瀬さん。予定より早く切り上げた理由を教えてください」
「第4層の西回廊で構造変動を確認しました」
「時刻は」
「午前五時……」
黒瀬が止まる。
水城が端末を開いた。
「五時二分に濃度上昇。五時九分から記録が欠けています。次は六時十四分、北側階段です」
「一時間五分の間は」
「移動していた、はずです」
また、はず。
「どの経路を」
「西回廊から北へ」
「西回廊は、構造変動で閉じたんですよね」
「だから、迂回を」
黒瀬の言葉が止まった。
三人とも、同じ場所で視線を落とす。
疲労だけなら、記憶の欠け方まで揃わない。
「食べてください。ただし、三人とも医療確認が終わるまで帰しません」
「負傷はありません」
「記憶も装備です。欠けたまま持ち帰らせるわけにはいかない」
宮前さんへ連絡を入れる。
帰還三名。外傷なし。同一時間帯の記憶欠損。
追加の医療班と、入域記録の照合を依頼した。
「当社の医療センターを手配できます」
八代さんが言う。
「ありがとうございます。市の記録が終わってからお願いします」
「当社を信用していない?」
「いま同じ会社へ、買収されない理由を説明していたところです」
「一貫していますね」
八代さんは反論せず、端末でどこかへ連絡を入れた。
俺は黄色線の装備へ向かう。
盾、一。
測定板、六。
大型背嚢、一。
薄緑の背嚢、一。
帰還札は、黒瀬、水城、堂前の三枚。
行政端末へかざす。三人とも帰還確認。予定より十八分早いが、入域時刻と資格番号に矛盾はない。
三人なら、問題はなかった。
俺は薄緑の背嚢を見る。
「開けます」
「待ってください」
堂前が立ち上がりかけた。
「あなたの荷物ですか」
「共同装備です」
「所有者を確認します。触れて困るものは」
「……分かりません」
堂前は、自分の答えに驚いた顔をした。
「俺は、これを誰から」
肩紐を握る。太い指が白くなる。
「下ろしていいんです」
「でも、持って帰れと」
「誰に言われました」
堂前の口が開く。
声は出なかった。
俺は背嚢の外側だけを見る。
右肩の布に乾いた泥。腰帯には、切断された細い命綱。名札を剥がした長方形の跡。
側面ポケットに、硬いものが入っている。
手袋をつけ、取り出す。
橙色の樹脂札だった。
帰還札。
ただし、市が昨夜発行した三枚とは形式が違う。
縁に黒い線。表面には東都開発の小さな社章と、試験運用を示す文字。
八代さんが席を立った。
「それを、どこで」
「八代さんも初めて見るんですか」
「形式は知っています。深層技術室の試験札です。現場投入の承認は、停止されているはずです」
「持ち主は」
「事業戦略室の名簿にはありません」
行政端末へかざす。
警告音。
照合先なし。
それでも、札そのものに残った最低限の情報は読み出せた。
氏名。資格。入域時刻。帰還状態。
表示された文字を、声に出して読む。
「羽鳥澪。三十歳。Aランク斥候」
白峰隊の三人を見る。
「この人を知っていますか」
黒瀬が首を横に振った。
水城も。
堂前は、薄緑の背嚢から手を離せないまま動かなかった。
「知らない」
黒瀬の声は、迷宮から戻ったときよりかすれていた。
端末の最後の欄に、赤い文字が点滅する。
帰還確認なし。
カウンターには、三人分の食事。
空席には、水が一杯。
床には、四つ目の背嚢。
「では、黒瀬さん」
橙色の札をトレーへ置く。
「どうしてあなたたちは、知らない人の荷物を背負って帰ってきたんですか」




