新しい鍵は、二人で確かめる
新しい棚の扉は、まだ軋むような音を立てなかった。
扉を閉めたあと、俺は少しだけ取っ手に手を残した。
前の店のあの蝶番は、結局直せないままになった。今ここにある棚は別の物で、閉まるときの重さも手応えもまるで違う。
「何回確かめるの」
神代さんが、入口で笑った。
「最後の一回です」
「さっきも同じこと聞いた」
俺は苦笑して手を離した。
明日、日曜日に店を開ける。
契約を交わしてから、六週間余りが過ぎていた。
内装工事と設備の点検を終え、必要な営業許可の手続きもすべて済ませた。計画どおりに進まなかった箇所はいくつもある。中古の冷蔵庫を選び直し、使う食器の数も絞り込んだ。
合意していた解体設備の補償金は予定どおり入金され、支払うべき業者へすべて支払った。もちろん、六年前の事故に関する賠償手続きまで終わったわけではない。
それでも、ここで明日から料理を出せる。
確かめたかったのは、その確かな事実だった。
◇
十二脚の椅子を、二人で並べた。
元の帰路亭より席数は少ない。それでも全部を置き終えたあと、人が無理なくすれ違える通路が残る。
隣接する休憩所の十六席は、そのまま保たれている。
仮眠を取る人、車を待つ人、食事をする人が、無理に同じ場所で同じ用事を済ませる必要はない。
「こっち、少し寄せていい?」
神代さんが背もたれに手をかけた。
俺はうなずき、自分が持つ隣の椅子の位置を合わせた。
二週間の講習から無事に戻ってきた彼女は、灰岳での救助当番も継続している。
帰ってきた最初の日には、俺の借用厨房ではなく、二人で町の店へ外食に出かけた。約束していたのは、俺の料理を我慢して待ってもらうことではなかったからだ。
今日は、彼女の非番だった。
「開店の準備を手伝わせてしまって、すみません」
「私が来たいって言ったから」
「それでもです」
「じゃあ、終わったらお茶淹れて」
条件が決まった。
俺は椅子から手を離し、給湯の準備へと向かった。
◇
航さんが搬入の荷物を持ってきた。
運送会社の便として、時間どおりにトラックを止める。荷物を下ろし、次の配送便に遅れないよう手早く検収を済ませる。
「明日、母さんと食べに来ます。予約、まだ大丈夫ですか」
「午後なら大丈夫ですよ。昼は前からの七名様が入っていますから」
「じゃあ、二時でお願いします」
俺は台帳へ二名分の名前を書き込んだ。
美津子さんは町外の倉庫で事務の仕事を続けていた。かつての車はもう手元にないが、親子がこの町で顔を合わせる時間まで消えてしまったわけではない。
航さんは、勤務先での仕事を更新してもらえたという。
一生の雇用が保証されたわけではない。それでも、先の予定を自分から話せるようになっていた。
「次、行きますね」
彼は作業用手袋をはめ直し、トラックへ戻っていった。
俺は搬入口を塞いで見送らないよう、一歩横へ身を引いた。
◇
昼過ぎには、小暮さんから端末に連絡が入った。
再実地試験を無事に終え、正式に資格認定が下りたという。新堂さんと有川さんを含む班の、次の現場もすでに決まっていた。
『おめでとうございます』
ようやく、ためらいなくそう返信できた。
続けて、非番の日が合ったら三人で食べに行きます、と文面が届いた。
机の端には、小野寺さんと葛西さんから届いた開店祝いのメッセージも置かれている。
前の店を開けた最初の日、神代さんが下へ残した二人だった。
かつて閉ざされたゲートの奥にいた人たちそれぞれに、別々の生活と予定がある。
この店の都合で全員を呼び集める必要はなかった。
宮前さんは、開店後の支援手順と連絡系統の確認にやってきた。
医療と帰還記録の原本管理は、市の担当へつなぐ。俺が個人で引き受ける相談は、対応する時間も範囲もあらかじめ限定した。飲食の客席を、泥や汚染を帯びた装備の仮置き場へ戻すような真似はしない。
「明日は、純粋に食事だけで伺います」
彼女が告げた。
「業務の巡回予定ではありませんね」
「完全に休みです」
その返答を聞いて、思わず笑みがこぼれた。
休むべき人間がきちんと休んでいる状態で、正しく回り始めた町なのだ。
◇
夕方、神代さんがポケットから小さな袋を取り出した。
中から出てきたのは、旧帰路亭の予備鍵だった。
「これ、返すね」
手のひらに受け取った。
最初に手渡したときは、緊急物資庫を開けてもらうための鍵だった。店主より先に店を開け、迷宮から戻った誰かを迎えてくれた日もあった。
もう、あの扉が開くことはない。
「……ありがとうございました」
その鍵を、保管している旧店の書類と一緒にしまった。
紛失したことにして片付けるのではなく、役目を全うした道具として残したかった。
代わりに、新しい店の予備鍵を机の上へ置く。
「これは、持っていてもらえますか」
神代さんは、すぐには手を伸ばさなかった。
「店番用?」
「違いますよ。店番をお願いするときは、事前に相談します」
俺は一度、小さく息を吸い込んだ。
「仕事がない日にも、寄ってほしいですから」
彼女はふっと表情を緩め、鍵を指先でつまみ上げた。
「じゃあ、もらう」
表へ回り、二人で鍵の開け閉めを確かめた。
どちらの鍵でも、扉は引っかからずに開いた。
◇
保管先から引き取ってきた看板を、取り決めた壁面へ掛けた。
『食事・休憩・装備相談』。
そのすぐ隣には、相談を受け付ける時間帯と、市の正式な連絡先も並べて掲示した。
看板の文字だけが前と同じだからといって、店が完全に元どおりになったわけではない。
ここまで辿り着く過程で失った物があり、手を差し伸べてくれた多くの人たちがいる。
その恩義のすべてを、自分一人だけで背負い込んで返そうとは思わなかった。
「お茶は?」
神代さんが横から声をかけてきた。
俺は、しまった、という顔をしてしまったらしい。
「まだ最後の確認が――」
「お茶」
俺はうなずき、厨房へ戻った。
湯を沸かし、二つの湯呑みをカウンターへ出す。
明日は開店だ。
けれど今日は、約束どおり淹れたての茶を二人で飲む。
新しい椅子に腰を下ろすと、隣に座った彼女が、受け取ったばかりの鍵をポケットへと静かに収めた。




