店主ではなく、あなたが好きです
箸袋に、必要のない折り目が増えていた。
「何を作ってるの」
神代さんに尋ねられ、俺は指先を止めた。
「……何も」
「すごく考え込んでる顔だった」
畳みかけていた紙を、机の端へそっと置いた。
火曜の夜。注文した料理はまだ運ばれてきていない。木曜から二週間、彼女は別の地域へ救助隊の講習に出向く。
その出発前の夕食だった。
「昨日は、ちゃんと帰れた?」
「はい。現地の確認も、食事も終わりました」
「よかった」
彼女がグラスの水を口に含む。
仕事の報告は、それで終わってしまった。
俺は箸袋へ伸びそうになった手を、太ももの上へ戻した。
「今日は、話したいことがあります」
神代さんがグラスをテーブルへ下ろした。
「うん」
その返事で、かえって緊張した。
業務の手順や段取りを説明するときなら、言葉の順序はおのずと決まる。だが今は、どの話題から切り出しても、肝心なところを避けてしまいそうだった。
「新しい店ができてからにしようと、思っていました」
「何を?」
「ちゃんと仕事が軌道に乗って、生活が落ち着いてから」
口にしながら、自分でもそれは順番が違うと分かっていた。
店ができたら、次は売上が安定するまで待つだろう。そのあとも、きっと別の理由を探して先延ばしにする。
神代さんは、急かすことなく待っていた。
その瞳をまっすぐに見つめ、俺はようやく言葉にした。
「神代さんが好きです」
彼女の指が、グラスの縁からすっと離れた。
「一緒にいるのが、仕事の場だけでは足りません。付き合ってください」
言い終えた瞬間、店内のざわめきが急に耳へと戻ってきた。
隣の席で誰かが追加注文を頼み、厨房の奥で皿が触れ合う音が響く。
告白したからといって世界が静まり返るほど、現実は都合よくできていなかった。
神代さんは、わずかに視線を伏せた。
「私も」
顔を上げた彼女は、柔らかく笑っていた。
「真壁さんが好き。店主だからじゃなくて」
俺は息を呑み、言葉を返そうとした。
それより早く、彼女が続けた。
「うん。付き合おう」
何度も頷くのは格好がつかない。
それでも、一度頷いただけでは到底足りなかった。
◇
料理を運んできた店員へ、俺たちは同時に場所を空けようとした。
肘同士がぶつかり、謝る声まで重なってしまう。
「急に、下手になった」
神代さんが小さく吹き出した。
「何がですか」
「二人で座るの」
これまで何度も食事をともにしてきた相手なのに、急に視線のやり場が分からなくなっていた。
運ばれてきた料理を一口食べた。
味は、ちゃんと美味しく感じられた。
「木曜からの講習は、予定どおりですね」
俺が言うと、神代さんが箸を止めた。
「行くよ」
「はい。しっかり行ってきてください」
彼女は俺の顔を確かめるように見て、それからふっと肩の力を抜いた。
「真壁さんは、店」
「作ります。無理をしない範囲で進めますよ」
「そこ、難しいでしょ」
「監督役が一人増えましたから」
神代さんは、静かに首を横に振った。
「恋人。監督役じゃない」
俺は手元の箸を置いた。
自分から願ったはずの間柄なのに、彼女の口から直接告げられると、まるで違う深さで胸の奥へ届いた。
「……そうですね」
ようやくそれだけ返すと、彼女も少し照れくさそうに料理へ箸を戻した。
◇
食事を終え、会計を済ませて店の外へ出た。
駅へ続く夜道を、二人並んで歩く。
いつもなら、人が来る方へ先に目が行った。
だが今夜は、隣を歩く彼女の手ばかりが気になって仕方がない。
「手、つないでもいいですか」
神代さんが俺を見た。
「いいよ」
彼女の方から、自然に手を差し出してくれた。
指を重ねると、思ったより温かかった。
危険な場所から誰かを引き上げるためではない。
転ばないよう支えるためでもない。
ただ並んで歩くためだけに、触れ合っていた。
「寂しいとは、言っていいんですよね」
俺が確かめるように呟くと、彼女が笑った。
「言っていい。でも、二週間だよ」
「分かっています」
「私も、会いたくなると思う」
重ねた指先に、きゅっと力が込められた。
俺は、探索の帰還を報告されるだけの窓口になりたかったわけではない。
仕事の話を何もしない日にも、ふと思い出してもらえる存在になりたかったのだ。
それを言葉にする代わりに、握られた手をしっかりと握り返した。
◇
駅の改札の手前で、どちらからともなく足を止めた。
ここから先は、帰る方角が分かれる。
「講習から戻ったら、何が食べたいですか」
尋ねると、神代さんは少しだけ考え込んだ。
「一緒に食べたい」
具体的な献立の答えではなかった。
だから、俺も料理の手順や味付けの説明を返さなかった。
「はい」
彼女は頷き、つないだままの手元へ一度だけ目を落とした。
俺も同じ場所を見た。
「離さないと、帰れないね」
言われて、二人して思わず笑ってしまった。
名残惜しさを残したまま、指をそっとほどく。
彼女が改札口へ歩いていく背中を見送った。
彼女が振り返ったときに手を振ると、向こうも返した。
俺は、まだ温もりの残る手をポケットへ収めた。
明日も、新しい店を作る準備を進める。
木曜には、彼女が自分の仕事のために旅立つ。
互いの予定は何も変わらないまま、俺たちの関係だけが、確かに変わっていた。




