先に帰って、飯を作っていてください
航さんの運転する車は、前の車より走行音が静かだった。
「会社の車ですから」
俺が荷台を眺めていると、彼が言った。
「知っていますよ」
「乗り心地まで前の車と比べてる顔だったので」
月曜の午後。規制区域の外側にある、地上の復旧作業所を訪れていた。
市から委託された現場確認の業務だ。今日は作業終了後の機材搬出と作業員の動線を、実際の道路上で検証する。迷宮の中へ潜る仕事ではない。
航さんは勤務先の正式な配車手配で来ていた。
車を個人的に借り受け、義理で俺に付き合っているわけではない。
作業班は四名。
作業終了後に道具をトラックへ積み込み、四人は別の送迎車両へ乗り込む。その際、狭い待機場所で資材車と送迎車の動線が重複する。
俺は車道から少し離れた安全な位置に立った。
工事の重低音が響いていても、指示の声は十分に聞き取れた。
「資材を先に出すと、作業員の方々が路上で待機することになりますね」
班長がうなずいた。
「ええ。だから、人を先に乗せて出そうかと」
「その車に乗るまで、道具の積み込みを止めてもらえますか」
航さんが、自分の会社の運行担当へ確認を入れる。
俺がすべての車両の運転手へ直接指図を出すわけではなかった。
◇
予定していた送迎車が、遅れることになった。
道中の道路工事による交通規制で、通過予定時刻がずれ込んだという。
班長が腕時計に目を落とした。
「作業時間を延ばしますか」
俺は作業員たちの足元を見た。
一人が安全靴の紐を緩め、結び直している。ずっと立っていた足だった。
「予定どおり終了した作業を増やす必要はないと思います。待機できる場所はありますか」
現場の休憩場所へ移動することになった。
工具を片づけ、四人が屋根のある場所へ入る。送迎車が遅れたからといって、その空き時間を別の作業で埋めるような真似はしなかった。
航さんの積み込み手順も組み直す。
送迎車への乗車スペースを確保するため、資材の搬出は後回しになる。彼は運行管理へ遅延を報告し、営業所への帰着予定時刻を更新していた。
俺も、借用している厨房へ連絡を入れた。
今夕、この作業班から食事を頼まれている。持ち帰りの弁当四食。配達便とは別の事前予約で、厨房の占有可能時間もあらかじめ決めてある。
ここへ残り続ければ、料理を作る人間が厨房へ戻れなくなる。
◇
「真壁さん、先に戻ってください」
航さんが言った。
俺は、班長と運行担当からの返答を待つように、彼の顔を見つめた。
「まだ四人、ここに残っています」
「ええ。車に乗ったら、班長から市の担当へ直接連絡します。俺の出発確認はうちの会社へ上げます。真壁さん一人だけに集約する連絡じゃないですから」
俺が普段から周囲に伝えてきた手順が、そのまま返ってきた。
班長も、緊急連絡先の控えを確認している。
遅れている送迎車の運転手とも連絡は通じている。作業員四名の所在も体調も把握できている。何の安全策もない危険の中へ置き去りにするわけではなかった。
「何か状況が変わったら」
「作業は再開しません。市の担当者と協議します」
班長がはっきりと答えた。
俺は、もう一度だけ何かを確認したくなった。
だが、その何かが見つからなかった。
「先に帰って、飯を作っていてください」
航さんが、少し笑って言った。
「今日は、そっちが真壁さんの仕事ですよ」
俺は手元の確認記録を市の担当者へ手渡した。
引き継ぎの完了を確認してから、自分の荷物を持ち上げる。
「……お願いします」
無責任に人を置き去りにすることと、職務を正しく委ねて持ち場へ戻ることは違う。
その境界線を、俺自身が率先して守らなければならなかった。
◇
厨房へ戻り、手を洗ったところで、ようやく呼吸が整った。
作業台に四つの容器を並べる。
誰の口に入るか分かっている仕事は、自然と手が動いた。
市の担当者から、作業員四名全員が送迎車へ乗車したと連絡が入った。
続いて、安全な解散場所への到着確認も届く。
航さんも機材の積み込みを完了し、営業所へ帰着した。現場確認に立ち会った俺自身の帰着も、市へ報告を済ませた。
作業班四名。
配送の航さん。
そして、俺。
それぞれの帰るべき場所で、確認手順が完了した。
俺が現場へ引き返すのを、誰も待つ必要はなかった。
コンロの火を弱め、煮汁を少しすくって味を確かめた。
避難のために途中で火を消し、冷めるままにして逃げ出したあの鍋とは違っていた。
受け取りに現れた班長が、温かい袋を受け取った。
「助かりました。四人とも、各自の家へ持ち帰って食べます」
「はい。温かいうちにどうぞ」
代金を受け取り、四食を手渡す。
相手が口にしたあとまで監視し続けるのは、料理人の仕事ではない。
◇
後片づけを終えたところで、神代さんからメッセージが届いた。
『今日、遅くなった?』
時計を見た。
取り決めていた厨房の返却時刻には、十分に間に合っていた。
『先に戻って、作りました。現場は担当へ渡しました』
少しの間を置いて、返信があった。
『じゃあ、明日は元気だね』
業務の手際を形式的に褒める言葉ではなかった。
明日の夜の約束を、彼女もきちんと意識してくれている。
『はい。楽しみにしています』
送信したあと、我ながら少し気恥ずかしくなった。
だが、取り消して文面を書き直すような真似はしなかった。
包丁をしまい、厨房の鍵を返す。
明日は、彼女へ話したいことがある。
そのために今日は、まっすぐ家へ帰った。




