待つだけの人には、なりたくない
「これ、私の席?」
神代さんが、床に置かれた椅子へ腰を下ろした。
着工前の部屋には、見本として借りてきた椅子が二脚あるだけだった。
「まだ決めていませんよ」
「じゃあ、こっち」
彼女は窓に近い方へ座り直した。
それだけで、何もないがらんどうの部屋が、少しだけ店に近づいた気がした。
土曜の午前、運営会社から内覧の許可をもらって足を運んでいた。
平日は施工業者との打ち合わせ、休日は二人で椅子の座り心地を確かめる。どちらも必要な時間なのだと、自分に言い聞かせるのに少し手間取っていた。
「背もたれ、低い」
「装備を外して座るには、このくらいかと」
「今日は着けてないよ」
そうだった。
彼女はいつもの探索用軽装甲ではなく、落ち着いた普段着で来ていた。
俺は隣の椅子へ腰を下ろす。
間隔を確かめようと手を伸ばしかけて、彼女の指先に触れそうになった。慌てて手を膝の上へ戻す。
「狭いですか」
「椅子の話?」
俺は窓の外へ視線を逃がした。
採光のいい明るい部屋で助かった、とは素直に思えなかった。
◇
鍵を担当者へ返し、近くの公園まで歩いた。
買った飲み物を手にベンチへ腰掛けると、神代さんが切り出した。
「来週の木曜から二週間、別の地域で救助隊の講習を頼まれてる」
俺は缶のプルタブへかけた指を止めた。
「泊まりですか」
「うん。実地訓練もあるから」
「もう返事は」
「これから。でも、行きたい」
迷いのない、はっきりとした声だった。
引き止めてほしい人間の口調ではなかった。
「神代さんが教える側なんですね」
「私も習う。強い人が一人で走るだけじゃ駄目だって、ここで分かったから」
俺はようやく缶を開けた。
プシュと小さな音が鳴り、話の続きを待つ間ができた。
「開店には、戻れると思う」
「工事の進み具合で、日程はまだ前後するかもしれません。そこへ無理に合わせなくても大丈夫です」
そう答えてから、胸の底に別の本音が残った。
戻ってきてほしい。
新しい店が開くから、ではなく。
神代さんは缶を握ったまま、じっと俺を見つめていた。
「……寂しいです、と言ってもいいですか」
彼女が、わずかに目を丸くした。
「いいよ」
「ですが、行かないでください、と引き止める話ではありません」
「分かる」
短く頷いてくれた。
説明を足さずに済んだ。
◇
神代さんは、公園の先を歩く人たちへ視線を向けた。
「前だったら、誰かに帰りを待たれるの、重いと思ってた」
俺は口を挟まず、耳を傾けた。
「もし間に合わなかったら、待ってる人まで傷つけるから。自分一人だけで走っていればいいと思ってた」
迷宮で兄を失ったという話を思い出す。
俺の口から、その話題を持ち出すことはしなかった。
「今は、どうですか」
「帰りたい。でも、自分の仕事を全部投げ出して、ここに留まるのも違う」
彼女は缶を両手で包み直した。
「真壁さんにも、ずっと待ってるだけの人にはなってほしくない」
新しい店の準備計画が頭をよぎる。
互いに自立した仕事を持ったまま向き合う関係を、俺自身も望んでいたはずだった。
「俺も、ただ待つだけの人にはなりたくありません」
声に出すと、その先の言葉を紡ぐのは少し勇気が要った。
「その代わり、会いに行く約束もさせてください。仕事の邪魔にならない日を選びますから」
神代さんが小さく笑った。
「たった二週間だよ」
「分かっています」
「でも、嬉しい」
俺は手元の缶へ目を落とした。
勢いよく喉へ流し込みすぎて、口の奥が急に冷たくなった。
◇
帰り道、美津子さんから端末にメッセージが入った。
倉庫の面接先から採用の通知が届き、来週から出勤が決まったという。
『航の仕事とは、ちゃんと別々に決めました』
添えられた一文に、思わず笑みがこぼれた。
おめでとうございます、と返信する。
今度は、確かな結果を受け取ってから祝うことができた。
「美津子さんから?」
神代さんへ伝えると、彼女もうなずいた。
「よかった」
「朝の弁当を、たまに注文したいそうです」
「お客さん、続いてるね」
町を出ていく人へ、食事を送り出す。
ここに留まり続けることを強制しなくても、成り立っていく仕事だった。
別れ道の手前で、神代さんが足を止めた。
「火曜の夜、空いてる?」
「はい」
「出発する前に、ご飯食べよう」
俺は頷いた。
「店を探しておきます」
「高いところじゃなくていいから」
「何を基準に探すと思われているんですか」
「ちゃんと座って、最後まで落ち着いて食べられるところ」
それなら、俺にも選べる。
彼女の後ろ姿を見送り、携帯のスケジュール帳を開いた。
帰還予定ではなく、二人で囲む夕食の約束だった。
画面を閉じても、胸の内にまだ伝えていない言葉が残っていた。
火曜の夜は、仕事の報告だけで終わらせない。
そう心に決めて、俺は自分の家路を歩き出した。




