帰路亭が休んでも、帰れる町へ
電話を取った相手は、俺の名前を知らなかった。
「帰還支援の訓練通報です。連絡担当者をお願いします」
『承知しました。受付番号を発行します』
水曜の午前、市の研修会場で、俺は受話器を握っていた。
今日は講師の一人として参加しているが、最初の通報ではあえて名乗らない取り決めになっていた。
『自力歩行が困難な方は何名ですか』
「一名です。ほかの二名は歩行できます」
『医療担当へ回線を接続します。食事の手配とは別系統で進めます』
定められた役割へと、順序よく声が引き継がれていく。
隣に立つ久世さんが、訓練記録簿へチェックを入れた。
「君がいなくても組織が回るかを試す試験で、君自身が口を出してどうする」
「まだ口は出していませんよ」
「今、息を吸っただろう」
呼吸のタイミングまで監査項目に入れるのは勘弁してほしかった。
◇
七項目の検証保留は、今回、市の共同撤退手順へ正式に組み込まれた。
何を行うか。誰を助けるか。誰が危険を背負うか。許容される時間と、失敗時の撤回手順。そして判断の責任者と、それを実行する者。
加えて、現場の判断に異議が生じた際の申し立て先と、責任者不在時の代行系統も明確に配置された。
俺の店へ電話をかければ何とかしてくれる――そんな属人的な体制では、もうなかった。
九十日試行で分けた費用負担と記録の保管方針も、試行後の運用へ引き継ぐ方針が決まった。市が受け入れ業務に対して正当な対価を支払い、企業側は冒した危険度に応じた負担を負う。帰還した個人へ店の休業損失を転嫁せず、当事者の氏名や医療記録を企業への請求書に添付することも禁じられた。
もちろん、予算の枠組みと毎期の更新審査は残る。何もしなくても対価が永久に支払われ続ける仕組みではない。
宮前さんは今日、別の会議へ出ていた。
それでも、訓練の受話器は滞りなくつながった。
「宮前さんが不在でも回るように、ですか」
俺が呟くと、久世さんは記録簿から視線を外さずに返した。
「その条件を誰よりも強く求めたのは、宮前本人だよ」
その徹底ぶりには、少しだけ口元が緩んでしまった。
◇
休憩に入ると、小暮さんが二人を連れてこちらへやってきた。
新堂さんと有川さんだ。三人とも、今日は迷宮へ潜るための装備を身につけていない。
「再実地試験、来月に決まりました」
小暮さんが俺へ報告してくれた。
「今回は、全員分の装備型式を事前に照合します」
有川さんが言い、小暮さんは「今度は自分一人だけで確認を抱え込みません」と言葉を続けた。
フィルターの誤支給問題は、出庫の取り違えと、実物を確認しないまま管理台帳と承認シールを処理した管理責任者の過失へと行き着いた。小暮さんが勝手に箱を入れ替えたわけではなかったのだ。
保管されていた残る十九本の照合も完了し、型式不一致だった資材はすべて運用から除外された。
「あの六十七時間分の未払い賃金、会社から受け取れました」
小暮さんが告げた。
再試験にかかる費用も会社が負担する。資格認定を無条件で得られたわけではないが、再挑戦の機会を得るために社員寮や雇用契約を失うという理不尽な条件は外された。
「おめでとうございます、と言うのはまだ早いですね」
「はい。そこは、ちゃんと合格してからお願いします」
小暮さんは屈託なく笑った。
誰かに助けられた被害者という役割だけで、彼女はここに立っているわけではなかった。
研修の終盤、高梨さんも顔を見せた。
今回改訂された手順書を確認するためだという。
「引き継ぐ相手の名前が、ここに書かれているんですね」
手順書の『受け入れ先』の欄を指でなぞりながら、彼女は言った。
六年前、地上で帰還者を待ち続けた人だった。
「はい。引き継ぎ先から受領の返答があるまで、送り側は完了扱いにしません」
俺が答えると、高梨さんはゆっくりと頷いた。
過去の仕事を単に美談として褒め称えるよりも、次に立つ人間が一人きりで待たずに済む仕組みを残す方が、ずっと確かなことだった。
◇
午後は、新しい店の契約に関する打ち合わせだった。
八代さんには、会社の条件を代わりに決定してもらうのではなく、費用の名目と境界線を一緒に確認してもらった。
撤去された旧帰路亭の厨房内装と設備については、明け渡し時の現況記録をもとに、正式な補償額と支払期日が確定した。
六年前の事故に関する損害賠償とは、厳密に切り離された別個の手続きだ。俺が食堂を再建するためと引き換えに、十一人の遺族の補償までまとめて幕引きにするような真似はできない。
「この補償金を受け取っても、帰還記録の原本を会社へ返還する条件はついていませんね」
念を押すように確認すると、八代さんは静かに頷いた。
「ついていません。会社に都合の悪い記録を回収するためのお金ではありませんから」
かつて彼女が帰路亭へ持ち込んできた買収提案とは、まったく違う答えだった。
「八代さんは、会社に残るんですか」
「残ります。今回の訂正通知が、当時と同じ対象へ確実に届いたかを誰かが最後まで確認しなければなりませんから」
「お一人で、ですか」
「担当を増やす話をしています」
彼女は腕時計の位置を直した。
かつてと同じ仕草だったが、その指先が目指している仕事の中身は変わっていた。
◇
空き区画の窓から、荷下ろしを終えた車が見えた。
奥村さんが、運営会社の担当者と一緒に賃貸借契約書の最終条項を確認している。
今度の店は、十二席。
まだ内装工事に入る前で、すぐに営業できる状態ではない。給排水と換気の施工、完了検査を経て、必要な営業許可を取得してから暖簾を掲げる。
救急の受け入れ待機場を、店の客席と都合よく兼用することはしない。
帰還支援の相談を受ける時間と、料理を作る時間も明確に分けた。
「店主さんが不在の日は、どうされますか」
運営会社の担当者が尋ねてくる。
「営業は休みにします。支援の連絡は市の当番窓口へ回してください。俺が休んでいる時間を、現場の稼働人数に算入しないでくださいね」
久しぶりに、その境界線を告げる側の立場へ戻れた気がした。
契約書の署名欄へ、自分の名前を書き入れた。
前の店の広さを取り戻すための約束ではない。
この場所でできる仕事を、正当な対価を受け取りながら続けていくための約束だった。
担当者が、控えの一式を俺へ手渡した。
その書類のどこにも、神代さんの名前は書かれていない。
彼女に頼むことがあれば、まず本人へ言う。
建物の外へ出ると、吹き抜ける風が少しだけ肌寒かった。
ポケットから携帯端末を取り出す。
『決まった?』
神代さんから、先にメッセージが届いていた。
『契約しました。十二席です』
そう打ち込んで送信すると、間髪を入れずに返信の文字が並んだ。
『私の席、ある?』
俺は歩みを止めた。
営業予定表をめくり直す必要など、どこにもなかった。
『あります。今度、休みの日に一緒に見ませんか』
送信ボタンを押し、返事が届くまでの間、俺は冷たい風の中で端末を握ったまま待った。




