車を売っても、運ぶ仕事は残る
荷台から最後に下りてきたのは、一本の箒だった。
「これ、持っていくの?」
美津子さんが尋ねると、航さんは箒の穂先を見つめた。
「まだ使えるから」
「毛先、曲がってるじゃない」
「その曲がりが、隅の埃に届くんだよ」
金曜の朝。物流休憩所の駐車場で、早瀬運送のトラックから私物を運び出していた。
俺は預かってもらっていた空箱を引き取りに来たところだった。
車を売却する、と美津子さんが決めた。
航さんも、その判断に同意した。
俺は「残念ですね」とは言わなかった。
まだ十分に走れる車を手放すことが、二人にとって何を残す選択になるのか、本人たちの口から聞きたかったからだ。
「これで、来月の維持費を心配しなくて済みます」
美津子さんは、空になった荷台の床を見つめて言った。
「面接の合否連絡は、まだでしたよね」
「ええ。だからこそ、車の処分は今日決めました。採用が決まってから考える、では遅すぎますから」
別々に判断すると言っていた言葉どおり、本当に別々に決断を下したのだ。
航さんが、運転席から小さな道具袋を下ろしてきた。
使い込まれた作業用手袋と、予備の荷締め紐が入っている。
「航さんの仕事の方は、どうですか」
尋ねると、彼は隣の配送拠点の建物を指差した。
「ここの運送会社で、荷扱いと配送の試用期間に入ります。来週からです。車は会社のを使います」
「採用が決まったんですか」
「期間を決めた仕事です。続くかどうかは、そのあと」
彼は袋の口をきゅっと結んだ。
正式採用の保証まであるようには言わなかった。
◇
運営会社の担当者が、引き渡し車両の確認にやってきた。
買い取り手は別の専門業者で、明日この駐車場から直接引き取っていく手はずになっている。俺がトラックを買い取れば万事丸く収まる――そんな安易な提案は出さなかった。今の俺自身にも、営業車両を所有し維持できるだけの余力はない。
航さんが、仕事の説明書を持ってきた。
始業時刻、担当する配送貨物の区分、支払われる賃金が明記されている。迷宮の稼働再開まで、無給で待機を強いられるような契約ではなかった。
「これなら、次に配達をお願いするときも、会社を通じて正式に依頼する形になりますね」
「はい。俺が個人で勝手に車を動かすわけにはいきませんから」
俺は深く頷いた。
都合のいい顔見知りが一人増えたわけではない。
正規の仕事として働いている相手へ、明確な条件を提示して依頼できる関係になれたのだ。
美津子さんが、息子の手元の書類を覗き込んだ。
「朝、起きられる?」
「今まで起きてたでしょ」
「私が起こした日もある」
「仕事の話してるんだけど」
航さんは、説明書を照れくさそうに自分の手元へ引き戻した。
俺は荷台から空箱を下ろす動作に没頭するふりをして、そっと二人の間合いを空けた。
◇
昼前に神代さんがやってきた。
約束していた隣の空き区画の内覧だ。
運営会社の担当者が再び鍵を開け、昨日届いたばかりの設備工事の見積書を広げた。
給排水と換気設備の導入工事は十分に可能。
ただし、かつての店と同じ品数を揃えられるほどの広さはない。
「揚げ物は、できる?」
神代さんが尋ねてきた。
施設の担当者ではなく、俺の目を見ていた。
「できますよ。毎日何種類も揚げるのは難しいですが」
「一種類でもいい」
一片の揺らぎもない真剣な要求だった。
俺は苦笑しそうになるのを抑え、手元の見積書へ視線を戻した。
すべての厨房機器を新品で買い揃えるだけの予算はない。
補償の手続きも、まだ終わっていない。入るはずの金を、手元にある資金として当てにするわけにはいかない。
作業台の数を一つ減らし、状態の良い中古品の確認を担当者へ依頼する。
昼と夕方の注文を同時に抱えず、最初は提供時間を限定する。
客席を無理に詰め込むくらいなら、使用済みの食器を安全に下げる洗い場を確保する。
神代さんは、俺が見積書から消した項目をじっと見つめていた。
「悔しい?」
「少しだけですね。できると思い込んでいたことが、削られていくので」
「できることも、ある」
彼女は入口を振り返った。
隣の休憩所を出入りする作業員たちの姿が、窓ガラスの向こうを行き交っている。
「帰ってくる人が、あそこにいる」
かつての店では、固く閉ざされたゲートの扉を見つめながら待っていた。
だがここには、すでに仕事から戻り、次の仕事へ出ていく人々がいる。
前の店とまったく同じ形にはならない。
それでいいのだと思えた。
◇
夕方、再び駐車場へ戻ると、トラックの荷台はすっかり空になっていた。
航さんは、先ほど下ろしたはずの箒を使って、荷台の隅々まで掃き清めていた。
「それ、持ち帰るんじゃなかったんですか」
「使ってから持っていきますよ」
最後まで現場で役目を果たす道具だった。
俺は、あの厨房から持ち出した自分の包丁の感触を思い出した。
美津子さんが売却の手続きを終え、車の鍵を袋へ収めた。
明日の引き取りまでの保管先へ渡す。
航さんはその手元をじっと見つめていたが、制止するような言葉は口にしなかった。
「ありがとうございました」
俺が声をかけると、美津子さんは顔を上げた。
「配達のことですか?」
「はい。店の備品も運んでいただきましたから」
「そちらは、ちゃんとお代をいただきましたからね」
彼女はそう答えて、少しだけ笑った。
感謝の言葉と正当な対価は、どちらか片方だけで済ませるものではないらしい。
帰り際、航さんが足元の空箱を持ち上げた。
「これ、運びますよ」
「今日の仕事の範囲には入っていませんよ」
「ここから、あそこまでですから」
彼が指差したのは、ほんの数歩先だった。
俺は、自分が抱えている箱と見比べた。
「では、そっちをお願いします」
すべてのやり取りを頑なに業務として線引きし、余計な距離を取る必要もなかった。
箱を並べて置くと、彼は手袋をポケットへしまった。
自分たちの車は手放した。
それでも、航さんの両の手は決して空っぽにはなっていなかった。




