知らなかったとは、もう言わせない
橙色の札は、袋に入っていた。
羽鳥さんは触れようとせず、その正面に座った。
「これを渡されたとき、安全のためだと言われました」
向かいに座る男が、札から顔を上げた。
三枝泰成。東都開発の深層技術室長。六年前の当時も、その部署を率いていた責任者だった。
木曜の午後、国と市の調査担当者が、追加照会で確認した内容を説明する席が設けられた。会社側と当事者が同席している。裁判でもなければ、この場で誰かの刑罰を決めるわけでもない。
だが今日、ここには『本社』という抽象的な言葉の向こうに隠れていた人間が座っていた。
「測位と行動記録を補助するための試験でした」
三枝が答えた。
「それが役に立つ目的だったことは、伺いました」
俺が言うと、彼はこちらへ視線を向けた。
「危険を分かっていたのかどうかを、今日は聞きたいんです」
◇
調査担当者が、試験札の発行記録と実施承認の書類を机に置いた。
停止扱いとなっていた型式を、灰岳での限定検証に限って運用する。その承認者の欄に、三枝の名前が記されていた。
羽鳥さんへの依頼は、その承認を受けた技術室の運用担当者から直接出ていた。
行政への正規の名簿提出は省かれ、会社内の試験用名簿で済ませたことにされていた。
「この承認は、ご自身のものですか」
「はい」
羽鳥さんが、膝の上で両手を固く組んだ。
「私は、忘れられるかもしれないと分かってから、必死で紙へ書き留めました。渡す前から分かっていた危険を、どうして全部教えてくれなかったんですか」
三枝は、机の上の札を見つめた。
「高密度の脈動環境でなければ、位置の補正は十分に機能すると判断していました」
「もし、高密度になったら?」
返答が遅れた。
隣の八代さんは、彼に代わって口を開こうとはしなかった。
「電子記録にも、曝露中の人間の記憶にも、欠損が生じる可能性がありました」
本人の口から、その言葉が出た。
羽鳥さんは頷かなかった。ただ聞いた、という顔のまま、席に座り続けた。
◇
六年前の通信記録も、追加の照会によって裏付けが取れていた。
現場から送信された控えだけでなく、本社側で受信した記録と、当時の当番による確認が一致したのだ。
午後一時二十六分。
北線、人員確認未了。
「この報告を受けたのは」
俺が尋ねる。
「私です」
三枝が答えた。
調査担当者は受信ログを示し、本人の証言と一致した事実を確認していく。
十一人全員の位置や負傷の内訳まで、三枝が把握していた証拠ではない。
だが、全員の帰還が確認できていないという事実は、確かに届いていた。
「そのあと、乾式試験区画の設備保全を優先するよう求めたわけですね」
「はい。ですが、北線の扉を閉鎖しろと指示したのは私ではありません」
「直接閉鎖を命じたのが榊原さんであることは、崩しません」
俺は保全票の写しへ手を置いた。
「あなたが事前に知っていた事実も、変えないでください」
三枝の視線が、俺の指先へと落ちた。
「人を受け入れるために区画を開放すれば、設備が使えなくなる構造だったことはご存じでしたね」
「承知していました」
「別の受け入れ先の手配は」
「現場統括が判断するものと」
「実際に確認したんですか」
彼は口を閉ざした。
浜田さんからも、まったく同じ形の答えを聞いていた。
「……確認は、していません」
俺は机から手を引いた。
拳で机を叩きたい衝動はあった。だが叩いたところで、そこに新しい受け入れ先が現れるわけではない。
「その設備を失ったら、何が止まる予定だったんですか」
三枝は、初めて間を置かずに答えた。
「実用化の試験そのものです。今後の資源事業の計画にも、外部との契約にも直結していました。一度失った設備を再び揃えるだけの期間は、開発日程の予定に入っていませんでした」
設備を失う側の焦りは、今の俺にも分かってしまう。
分かってしまう自分が、少し悔しかった。
「日程の予定にないから、生身の人間を受け入れる退路を確認しなかったんですね」
三枝は、重く息を吐き出した。
「……設備を残すことを、優先しました」
短い告白だった。
その言葉を、調査担当者が本人へ向けて淡々と読み返した。
◇
複製された帰還札の管理鍵についても、同じ席で事実確認が行われた。
下請けの古賀へ渡っていた鍵は、何者かに盗み出されたものではなかった。技術室が照合の代行用として貸与を承認し、現場の運用担当から正式に引き渡されていたのだ。
その承認欄にも、三枝の名があった。
「人件費を浮かせるための不正な複製まで、承認した覚えはありません」
三枝が言った。
「古賀さん自身の判断も、別に記録します」
宮前さんが答える。
「しかし、発行事業者の正規の権限を誰へ渡し、その運用をどう管理していたか。その監督責任は、こちらに残ります」
すべてを一人の人間が実行したわけではない。
だからといって、誰の責任でもなくなるわけではなかった。
説明が終わり、担当者が袋に入った札を保管へ戻した。
羽鳥さんは、その手が離れる瞬間まで見つめていた。
「私たちの記憶は、戻るんでしょうか」
三枝は何か言いかけ、言葉を止めた。
同席していた医療側の担当者が、記憶の回復を保証する知見は得られていない、と静かに告げた。
羽鳥さんは「分かりました」とだけ答えた。
俺は、今ここで安易な慰めの言葉をかけてはいけないと感じていた。
彼女が失った時間を、自分の怒りの結論へ使うことはできなかった。
◇
会議室を出ると、廊下で黒瀬さんが待っていた。
「帰るか」
「うん」
羽鳥さんはごく自然に、その隣へと歩み寄った。
過去の記憶を取り戻したわけではない。いま、目の前で待ってくれている人の方へ歩き出したのだ。
八代さんが俺へ声をかけてきた。
「今日確認された内容は、会社の公式回答にも反映させます。個人の責任論だけで終わらせるつもりはありません」
「八代さんが、全部背負い込むんですか」
「いいえ。私が署名できない責任まで、自分の名前で引き受けるつもりはありません」
彼女は手元の資料を閉じた。
本社のシステムへ戻るための鍵を取り出したわけではなかった。
「正式な回答を待っています」
俺はそう伝え、三人と共に建物の出口へ向かった。
あの日、事実を知っていた人間の名前は明らかになった。
次は、その人間を雇用し、その判断を通した組織としての答えだった。




