今日の仕事には、今日の代金を
航さんは、差し出した封筒を受け取ろうとしなかった。
「今日は、お試しですから」
「試した分は、働いていませんでしたか」
俺が問いかけると、彼は困ったように笑った。
午後の受け渡し口。返却した保温容器は、向こうの棚へきちんと収まっている。車も荷物も戻り、今日の配送業務は無事に終わっていた。
注文元には、六食と十二食の受け取り確認が取れている。
支払担当者からの入金連絡を受け、こちらでも着金を確認済みだ。急な行き先変更で増えた走行分も、了承された金額で別途精算を済ませていた。
車の使用料と燃料費は、美津子さんへ。
そしてこの封筒に入っているのは、航さんの運転と荷扱いの日当三千円だった。
「でも、真壁さんが仕事を見つけてきてくれたわけですし」
「航さんが届けてくれたからこそ、俺も代金を受け取れたんです」
受け渡し口の台の上へ、封筒を置いた。
無理に押しつけず、彼が自分から手を伸ばすのを待つ。
「受け取らないと、次もタダ働きになりますよ」
「次は、ちゃんともらいます」
「今日も受け取ってください」
航さんが、ようやく手を伸ばした。
封を開けて中身を確かめ、「受け取りました」と短く告げる。
俺も、手元の帳面へ今日の収支を書き留めた。
食材費、厨房の借用料、保温容器の費用、運送費。売上の大半は、誰かの仕事と使った設備の対価として消えていった。
手元に残った数字を見つめ、しばらく口を閉ざした。
「……少ないですか」
航さんが尋ねてきた。
「一日中働いた対価としては、まだ足りませんね」
嘘をつくわけにはいかなかった。
「ですが、誰かに無償で働いてもらうことなく、何が足りないのかを把握できました」
最初から大成功だったと取り繕う必要はない。
かといって、失敗だと決めつけて投げ出すほど、何も残らなかったわけでもなかった。
◇
美津子さんが戻ってきたのは、それから間もなくのことだった。
朝に渡した弁当の袋を、きれいに折り畳んで手に持っている。
「面接、終わりました」
「お疲れさまでした。結果は」
「来週に連絡が来ます。まだ何も決まっていませんよ」
俺は深くうなずいた。
仕事が決まってよかったですね、などと先走った言葉を口にするところだった。
航さんが、手元の封筒を母親へ見せた。
「日当、もらった」
「中身、数えた?」
「数えた」
「使った分の記録も、書いた?」
「それは、今から」
仕事人としての顔が、少しだけ息子の顔へ戻っていた。
美津子さんは車の費用の精算を確認し、それから途中で配達先が分かれた件について尋ねた。
「川沿いの作業所を先にしたんだって?」
「うん。南の休憩所の方が、昼休みに入るのが遅かったから」
「あそこの入口、道幅が狭いでしょう」
「中まで車を入れないで、手前で受け取ってもらった」
母親は息子の答えを聞き届け、ようやく納得したようにうなずいた。
航さんは、もう少し何か言いたげな様子を見せたが、結局は口を噤んだ。
「金曜日に、車をどうするか決める。その予定は変えないよ」
「分かってる」
今日の一便をやり切ったからといって、迫っている期限まで消えるわけではない。
美津子さんの面接も、息子の仕事が一日うまくいったからといって辞退するような話にはならなかった。
俺は、現時点で次の注文が入っていない事実を伝えた。
「次の注文がないので、明日の便まではお願いできません」
「俺も、ほかの仕事を探してみます。許可のちゃんと出ている、外の現場を」
航さんが言った。
例の回収依頼の相手には、今の条件では引き受けられないと返答したままだという。入域の申請も、実際の回収もしていない。
俺はその事実を再確認したうえで、尋ねた。
「次に配達をお願いできる仕事ができたら、連絡してもいいですか」
「はい。空いているか、先に返事します」
その約束があれば、俺もまた他人の名前を段取りに勝手に書き込まずに済む。
◇
厨房の責任者へ、今日の清掃と設備の返却確認を申し出た。
作業場は決めていた時刻までに明け渡せている。借りた保温容器の数にも不足はない。
「次に使う日が決まったら、また事前に連絡をください」
「はい。本日はありがとうございました」
鍵を返し、持参した包丁の箱を鞄へ収めた。
自分の作業台は、ここにはない。
それでも今日は、十八人の昼飯と一人のための弁当を、確かに作り切った。
美津子さんが、帰り際にふと足を止めて振り返った。
「卵焼き、甘さがちょうどよかったです」
面接の合否でも、配送の反省点でもなかった。
今朝の最初の客が、弁当の味の感想を返してくれた。
「……ありがとうございます」
俺は、かつて自分の店で口にしていたのと同じ調子で返すことができた。
母親と息子は、車を停めてある場所へ並んで歩いていった。
今日の帰り道が同じだからといって、その先の予定までそろえる必要はどこにもない。
◇
神代さんとの夕食は、町の食事処にした。
俺自身が厨房へ立つ必要のない場所だった。
「今日は、何を食べますか」
「真壁さんは?」
手元の品書きに目を落とす。
いま自分が作れる料理ではなく、自分が今夜食べたい物を選ぶ作業には、まだ少し戸惑いがあった。
「焼き魚にします」
「じゃあ、私は唐揚げ」
店員が注文を控えて下がると、向かいの席から神代さんが尋ねてきた。
「配達、どうだった?」
「着いたら、誰もいませんでした」
彼女の眉が、わずかに持ち上がる。
急遽二か所に分かれた現場へ届けた経緯をかいつまんで話すと、彼女は最後まで静かに聞いてから、ふっと口元を緩めた。
「迷宮の外でも、帰り道を作ってる」
「今日は、行き先ですよ」
「無事に帰ってきたでしょ。二人とも」
俺はうなずいた。
彼女の力を借りて解決してもらうことなく、航さんと二人で仕事を完結させた。その報告を、仕事が終わったあとにこうして聞いてもらえている。
注文した料理が運ばれてきた。
神代さんは箸を取り、唐揚げを一つ口へ運んだ。飲み込んでから、うなずく。
「おいしい」
俺の作った料理でなくても、彼女はそう口にする。
その当たり前の事実が、今日は妙に嬉しかった。
「ここじゃなくても、また食事に誘っていいですか」
口にしてから、少し要領を得ない言い回しだったと気づいた。
「俺の新しい店ができるのを、待たずに」
神代さんは箸を止めた。
「待ってないよ」
短く返し、それから言葉を続ける。
「今日は、真壁さんと食べに来た」
俺は焼き魚の小骨へ視線を落とした。
箸を入れるべき位置は分かっているのに、指先の動きがわずかに鈍る。
「次は、神代さんの非番の日に合わせます」
「うん。決まったら言う」
鞄の中には、前の店の予約帳が入ったままだ。
取り出すことはしなかった。
今交わした約束を、店の仕事として書き留める必要はどこにもなかった。
俺は箸を持ち直し、まだ温かさの残る魚の身を口へ運んだ。




