あなたの店のために、残るんじゃない
美津子さんの名前を、俺は紙から消した。
名前を消せば済む話ではなかった。
「すみません。明日の面接のことは、伺っていました」
「聞いてましたね」
美津子さんは静かに返した。
航さんが、俺と母親の顔を交互に見比べた。
「母さん、別に一日くらい」
「あなたの一日と、私の一日は同じ予定じゃない」
航さんが口を閉ざした。
俺自身も、航さんと同じ思い込みを抱いていたのだと気づかされた。
明日の配達がうまくいけば、次の注文につながるかもしれない。
二人が残ってくれれば、俺も仕事を続けやすい。
その先に、新しい帰路亭の姿を描けるかもしれない。
美津子さんが望んだ生活の順番は、そこにはなかった。
「お二人で運送を続けたいはずだと、俺が勝手に決めていました」
俺が言うと、彼女はその紙を受け取った。
消された自分の名前の箇所を、親指の腹で押さえる。
「私は、いったん外で働きたいんです。注文が戻るかもしれないって、毎日口座を見るのをやめたい」
彼女の爪の端に、小さなひび割れがあった。
納品のたび、いつもその指先で伝票の数量と代金を確かめていた。
「この店がもう一度できたら、嬉しいです。でも、あなたの店のために残るんじゃない」
俺は深くうなずいた。
胸の奥が痛んだが、耳を塞いでやり過ごしていい痛みではなかった。
「面接には、行ってください。明日の朝の弁当も、ご注文どおりにお作りします」
美津子さんは息を吐いた。
「そのために来たんです」
◇
車をどうするかは、別の問題として残った。
美津子さんはすでに買い取りの査定を頼んでいた。車を維持して待つにも金がかかる。
「明日の一回で、車を売らないって約束はできないよ」
息子へ向けた言葉だった。
航さんは受け渡し口に置いていた鍵を握りしめた。
「一回やってみて、いくら手元に残るか確かめたいんだ」
「仕事代を全部、車に入れたら?」
「……それなら、続けられない」
言い切ったあと、航さんは自分で少し驚いたような顔をした。
その現実的な答えを自分の口から出したのは、これが初めてだったのかもしれない。
俺は新しい紙を取り出した。
「明日の運転と荷扱いには、航さんへ日当三千円を出します。車の使用と燃料は、それとは別に美津子さんへ支払います。航さんの日当から、あとで引く形にはしません」
美津子さんへ向けて、車の使用と燃料の条件を尋ねた。
彼女は費用を挙げ、それなら明日の一便は使わせられると答えた。今週中に収支を見て、金曜に売却の判断をする。明日の一件だけで、金曜まで毎日仕事があることにはしない。
「俺が次を探します」
航さんが言った。
「でも、勝手に入る回収はやりません。今日、断りました」
美津子さんは、携帯を見せろとは言わなかった。
「じゃあ、明日の行き先を教えて」
俺が紙へ配達先を書き留め、航さんが位置関係を確認した。
母親をここに留めるための手順ではなく、息子が一便を確実に届けるための手順へと、ようやく書き改められた。
◇
神代さんから、当番を終えたとの連絡が入った。
こちらへ寄れるというので、厨房を弁当業者へ返す時刻までに来てもらった。営業用の料理を新しく作るのではなく、片づけを終えたあとに責任者が使わせてくれる休憩場所で話す。
「明日の分、決まった?」
彼女は手荷物を下ろして尋ねた。
「十八食、一便です。美津子さんは面接へ行き、航さんが配送を担当します」
「そっか」
神代さんは机の上の紙に目を落とした。
消し跡の残る、最初の一枚が下から覗いていた。
「うまくいかなかった?」
「一緒に残ってもらう前提の計画を、勝手に作ってしまいました」
彼女はまっすぐに俺を見た。
「頼んだの?」
「その前に、名前を書き入れてしまいました」
口にすると、言い訳の余地などどこにもなかった。
神代さんは椅子へ座り、しばらく何も言わなかった。
「人を無事に帰す段取りと、自分のそばにいてほしいという都合が、混ざってしまいました」
俺は続けた。
「あの二人がいてくれると、俺自身も店を続けやすいですから」
「うん」
「よくないですね」
「頼めばいいと思う。勝手に決めないで」
思わず顔を上げた。
彼女は、消した美津子さんの名前の上に指を置いた。
「断る方も、ちゃんと選べるように」
俺はその紙を裏返した。
今度は、最初から本人へ言葉で伝える。
「明日、配達が終わったら一緒にご飯を食べませんか」
神代さんは、すぐにはうなずかなかった。
携帯を取り出し、自分の予定を確認する。
「夕方なら」
「では、夕方に」
「仕事を増やさないでね。そのために」
それも、先に釘を刺してもらえてよかった。
◇
引き上げる前に、明日の朝に使う保温容器を並べた。
弁当業者から借りる備品のため、返却時刻も決めてある。航さんは箱の並びを見て、荷台へ収めやすい順に置き直した。
「調理が仕上がる順で並べていました」
「明日は、荷台に収める順に変えます」
俺は箱を戻さなかった。
運ぶ人の仕事には、運ぶ人にとっての正しい順番があった。
美津子さんが、息子の置き直した箱を見つめた。
「紐も忘れないで」
「持ってる」
「予備は?」
「ある」
返事がだんだんと短くなっていく。
危険な回収依頼を断るときよりも、こちらの方がよほど難しそうな顔をしていた。
俺は美津子さんの注文票を手に取り、明日の受け取り時刻を再確認した。
朝の七時半、一つ。
現場へ届ける十八食とは、完全に別口だった。
十九個の弁当容器を数え終え、蓋の重なりをそろえた。
母親と息子の進む先を、同じにする必要はもうなかった。




