次の二人前は、別々の行き先へ
振り返った先に、皿がなかった。
右だった。
分かっていたはずなのに、左へ手を伸ばしてしまう。
借りた厨房の作業台で、俺は空の手を一度下ろした。
「まだ慣れない?」
受け渡し口の向こうで、神代さんが尋ねた。
「皿の方が移動してくれると助かるんですが」
「ここでは右」
「承知しています」
口より先に腕が、前の店へ戻りたがる。
帰路亭を明け渡して、六日が過ぎた。
町の弁当業者が、使っていない時間帯の厨房を貸してくれた。営業者と生活衛生の担当に、作る物と保管、受け渡しの範囲を確認してある。客席はない。俺がここでできるのは、しばらく予約分の持ち帰り販売だけだった。
設備を借りる代金も、決めた。
善意でいつまでも空けておいてもらえる部屋ではない。だから、何食売れば足りるかを考えられた。
昨日の日曜には、奥村さんへもう一度連絡した。
七席の予約は取り消し、揚げ物の注文は改めて相談することになった。ここでは、揚げたてを七人に座って食べてもらえない。
椅子だけを持ち込めば店が戻る、という話でもなかった。
看板は保管先にある。
今日の受け渡し口には、紙で『帰路亭・予約分お渡し』と書いた。
「字、小さい」
神代さんが言った。
「読めますよね」
「私は読める」
最強探索者を基準にした店の案内は、あまり親切ではない。
俺はもう一枚、太く書き直した。
◇
最初の来客は、美津子さんだった。
作業用の上着ではなく、襟のついた薄いシャツを着ていた。伝票の袋も持っていない。
「明日の朝、弁当を一つお願いできますか」
「できます。何時のお渡しですか」
「七時半。電車に乗るので、汁の出にくい物がいいです」
俺は注文票を出した。
納品の相談ではなかった。美津子さんが、俺の客になっていた。
「お仕事ですか」
「面接。町の外の倉庫で、事務の募集があってね」
ペンが一瞬止まった。
「運送の方は」
「便が戻るまで待っていたら、先に口座が空になりますから」
美津子さんは、受け渡し口の紙を見た。
「真壁さんが悪いって話じゃありませんよ」
「はい」
そう答えたのに、肩へ入った力が抜けなかった。
彼女が慰めまでしなければ弁当を頼めない店には、したくなかった。
「冷めても食べやすい物にします。面接の時間に合わせて、受け取りは早めにもできます」
「七時半で大丈夫。ちゃんと代金も払います」
「もちろん、いただきます」
美津子さんが、初めて少し笑った。
その後ろから航さんが顔を出した。
「俺も一つ頼めますか」
「明日の朝ですか」
「はい。長く持つやつがいいんですけど」
同じ家の二人分だからと、一枚にまとめかけた注文票を分けた。
「どこで食べますか。何時ごろになるかも」
「仕事が終わってからです。昼を回るかもしれなくて」
美津子さんの顔が、息子へ向いた。
「何の仕事」
「まだ決めてない」
「決めてないのに弁当は頼むの?」
航さんは、受け渡し口の縁に指を置いた。
俺は注文票の時間欄を空けたまま待った。
長く持つ弁当だけで、危険な仕事と決めつけることはできない。配達が長引く日もあるし、外で食べる人もいる。
必要なのは、行き先を本人から聞くことだった。
「機材を、取りに行く話です」
ようやく航さんが言った。
「閉まった作業所に残ってる物を、車で下へ運べばいいって。持ち主から頼まれて」
美津子さんが、何か言いかけた。
俺は先に尋ねた。
「区域へ入る許可はありますか」
「申請はまだです。場所は分かるし、荷物も俺が前に運んだ物なので」
俺はペンを置いた。
◇
航さんは、携帯の依頼文を自分で開いた。
見せてよい部分を確認してから、受け渡し口へ置く。
報酬は回収できた場合だけ。車と運転は航さん持ち。荷物の場所は書いてあるが、入域許可の手配はなかった。
「持ち主の了解と、区域へ入る許可は別です」
「分かってます。でも、壊すわけでも盗むわけでもないです」
「道の安全は、それでは確認できません」
航さんは携帯を引き寄せた。
そこへ、神代さんが言った。
「私も許可なしでは入らない」
短い言葉に、航さんの目が上がった。
「神代さんでも?」
「うん。行けるかと、行っていいかは別」
彼は返事をしなかった。
美津子さんが横から携帯を取り上げることもなかった。
「まだ、受けた返事はしてないんですよね」
俺が確認すると、航さんはうなずいた。
「今日中に、返事すれば」
「返事の前に、別の安全な仕事も一緒に考えさせてください」
言ってから、自分の注文票を見た。
いま確実にある仕事は、美津子さんの弁当一つだった。
それで人一人の運転代を出せるわけがない。
神代さんが壁の時計を見た。
今日は午後から別の有償救助当番へ向かう。俺の店がなくなっても、彼女の仕事まで止める理由はない。
「帰ってから、話の続き聞く」
彼女は俺と航さんの両方を見て言った。
美津子さんは自分の注文票を指差した。
「私の分は、お願いします。航の話とは別で」
俺はうなずいた。
「七時半、お一つですね」
母の行き先を、息子の仕事が決まるまで止めてはいけなかった。
注文票を一枚、確定の側へ移す。
もう一枚は未受付のまま、行き先も食べる時間も書けなかった。
航さんは、携帯の画面を消した。
「……今日、夕方までなら」
俺は、その時間を注文票ではなく自分のメモへ書いた。
弁当を断って終わりにしないための、こちらの期限だった。




