最後の客より先に、店主を帰す
店の鍵がない。
ポケットへ手を入れてから、岡部さんに渡したことを思い出した。
もう三度目だった。
「真壁さん。こちらへ」
下側の臨時連絡所で、宮前さんが机の端を空けてくれた。
俺は外周路を下り、到着を報告したあとも、立ったまま上を見上げていたらしい。
店の客二人は、誘導員と一緒に到着済み。
設備班のうち、自力で歩ける六名も再確認を終えていた。いま上にいる負傷者二人とは、医療側との連絡がつながっている。
「真壁、下側へ到着。怪我はありません」
自分の分を報告すると、担当者が名簿へ印をつけた。
俺が下りてきても、上の仕事は続いている。
鞄を下ろすと、底で包丁の箱が小さく動いた。
中身がずれていないか開けようとして、思いとどまる。布で包んで固定したのだ。今ここで取り出す用事もなかった。
◇
着工から四時間ほどが過ぎたころ、最初の車両を通す確認が始まった。
ここからでは、店がどうなったのか見えない。
聞こえてくるのは、工事担当の報告と、医療側の短いやり取りだけだった。
『路面確認中。人を乗せる前に車両だけで試験通過させます』
岡部さんの声が返る。
俺は車の音を聞き分けようと耳を澄ませたが、届くのは風の音と周囲の声ばかりだった。
少しして、坂を上っていく救急車の車体が見えた。
外周路の曲がり角へ入り、そのまま奥へと姿を消す。
日曜の時点では、そこを通れなかった。
手元のメモへ到着予定を書こうとして、ペンの先が止まった。
見込んでいた時刻と、実際の通過時刻は別だ。それは、俺が普段から口にしていたことだった。
宮前さんが受話器を取る。
「はい。現場での積み込み完了の連絡を待ちます」
相手の返事を聞き届けてから、机の管理用紙へ時刻を書き入れた。
俺は、その数字を自分のメモへ書き写すのをやめた。
しばらくして、神代さんから連絡が入った。
『一人目、乗った。医療へ引き継いだ』
簡潔な声だった。
言葉の合間に、車の扉が閉まる重い音が混じる。
俺は思わずマイクへ手を伸ばしかけたが、通信担当が受けていた。
伸ばした手を、そのまま膝へ戻す。
次の車両が上へ向かった。
交互通行の安全確認が済むまで、徒歩で下りる工事関係者も待機している。帰れる道が開いたからといって、全員を一度に動かしていいわけではない。
やがて、二人目の積み込みと引き継ぎが伝えられた。
腰を痛めた坂井さんも、もう一名の負傷者も、医療担当が状態を確認しながら搬送された。確定診断は病院の医師へ委ねられた。
八名のうち、六名は下へ歩いて到着。
二名は車に乗せられ、搬送先へ引き継がれた。
八人全員の確認が、そろった。
胸へ手を当てたいような衝動に駆られたが、俺は机の縁を握りしめたまま動かなかった。
◇
神代さんが下りてきたとき、俺は思わず立ち上がってしまった。
彼女は俺の姿を認めるなり、わずかに歩調を緩めた。
「終わった」
「怪我は」
「ない。確認も受けた」
成瀬さんも一緒だった。二人の帰着を担当者が記録する。
医療担当の二名はそれぞれ搬送車へ同乗し、搬送先からの引き継ぎ確認が届いた。工事班も人員と工具の点呼を終え、岡部さんも坂を下りてきた。
現場に必要な保安規制の担当は、交代要員へ引き継がれる。残る人間の名前を消して強引に終わらせるような処理はしない。
宮前さんが、今回の搬送案件の記録を閉じた。
救助側も、店の側も、確認の漏れは一つもなかった。
「帰路亭は……」
尋ねると、岡部さんがこちらを向いた。
「厨房側は撤去しました。残った建物も、立ち入りを制限します。営業の再開はできません」
知っていた。
自分で承知して鍵を渡したのだ。
それでも、改めて言葉にされると、肩から力が抜けていくのが分かった。
「今日、荷物を取りに戻ることも」
「できません。搬出した物品はこちらで確認できます。残置物の回収は、後日の安全確認が済んでからです」
俺はうなずいた。
神代さんが何か言いかけ、口を閉じた。
代わりに、鞄を持とうとした俺の手元を見つめる。
「ご飯、食べた?」
食べていなかった。
◇
物流休憩所の奥村さんが、パイプ椅子を二つ空けてくれていた。
机の上には、市が手配した夕食の仕出し弁当が並んでいる。俺の作った料理ではなかった。
「温かいうちにどうぞ」
割り箸を差し出され、俺はそれを受け取った。
何か手伝えることはないかと周囲を見回すと、奥村さんが椅子の背を引いた。
「今は、食べる側の人数が足りませんよ」
俺は腰を下ろした。
神代さんも隣へ座る。向かい合わせではなく、同じ方向を向いていた。
弁当の蓋を開けると、焼き魚と卵焼きが入っていた。
魚の端は少し冷めていたが、ご飯はまだ温かい。
ひと口食べてから、自分がひどく空腹だったことに気づいた。
「今週の日曜の予約ですが」
俺が切り出すと、奥村さんは湯呑みを置いた。
「お店、使えないんですよね」
「すみません。まだ、代わりの場所も決まっていなくて」
「分かりました。六人には、私から伝えておきます」
いつまでも待ちます、とは言わなかった。
だから、俺も守れない約束を返さずに済んだ。
「揚げ物は、また頼んでもいいですか」
少し間を置いて、奥村さんが尋ねてきた。
「作れるようになったら、ぜひ」
「じゃあ、そのときに連絡をください。数は先に決めておきますから」
神代さんが、箸を動かしたまま言った。
「私の分も」
俺はようやく、小さく息を漏らして笑った。
入口のあたりで、運送会社の面々が電話対応に追われていた。
明日の配送便は中止。週末の資材搬入も見合わせ。宮前さんから届いたのは、一般開放の話ではなく、保守や講習を含めた限定稼働の停止だった。地上も含めた危険を確認し直すため、行政が運用を止める。
無事に帰ってきた人たちの仕事が、その先で止まっていた。
美津子さんが通話を終え、こちらへ軽く頭を下げた。
「預かった荷物は指定の保管場所へ運びました。受取の控えは、あとでお願いしますね」
「ありがとうございます。配送代も確認します」
「ええ、お願いします」
普段と変わらないやり取りだった。
だが、彼女は次の納品日を聞いてこなかった。
俺は弁当の残りを口へ運んだ。
食べ終えたら、自宅へ帰る。
だが、明日出勤する店はもうなかった。
働く場所を失ったことが、急に、自分の現実になっていた。
神代さんが空になった湯呑みへ茶を注いでくれた。
「今日は帰ろう。送る」
「……お願いします」
店へ戻る、とは言わなかった。
鞄の中の予約帳の感触を確かめ、箸をそろえて置いた。




