この厨房を、通してください
持ち出す物を、いつもの仕入れ帳の裏へ書き出した。
包丁、帳面、連絡先。冷蔵品は、電源を落とす前に引き取り先へ回す。
鍋、と書いて手が止まった。
どの鍋かまで、指定しなければならなかった。
「全部ではないんですね」
岡部さんへ尋ねると、彼は扉の内側を確かめてから答えた。
「立ち入りは持ち出しのための短時間だけです。重い設備の取り外しは作業担当へ任せてください。外せない機材を待って着工を遅らせることはできません」
建物の点検で、いま使ってよい経路は確認されていた。営業再開の許可ではない。作業員が入口に立ち、こちらが中にいる間は撤去を始めない。
俺は鍵を開けた。
午前に飛び出したときと同じ場所に、鍋の蓋が転がっていた。
踏まないよう拾おうとしたところで、神代さんが先に持ち上げた。
「これは?」
「持っていきます。その鍋の蓋です」
普段なら、見なくても自然に手が伸びる道具だった。
今日は一つずつ、その行き先を言葉にする必要があった。
◇
宮前さんは、外で所有者側の担当者と話を詰めていた。
建物の撤去と敷地の使用については、権限のある者同士で決める。俺が署名したのは、自分の営業と設備の明け渡しに関する確認だった。
現況写真を撮る担当者が、作業台と冷蔵庫を次々に記録していく。
まだ十分に使える機材に補償の値段をつけていく会話を聞いていると、救助活動の邪魔をしているような気分になった。
「これは、あとでいいです」
思わず口をついて出た言葉を、宮前さんが首を振って遮った。
「今撮っておかないと、あとでは状態が分かりません。並行して進められます」
俺は伸ばしかけた手を引っ込めた。
自分の被る損失を記録する作業まで、現場の忙しさを理由にうやむやにしてはいけなかった。
事務の棚から帰還記録の束を取り出す。
今動いている中央は市にあり、ここにあるのは控えと保管分だ。六年前の資料も、別の袋に分けた。外部へ保全した原本の代わりになる唯一の証拠、というわけではない。
それでも、水や工事の埃で駄目にしてよい紙ではなかった。
「これを先にお願いします」
市の受け取り担当へ袋を渡すと、相手は中身の区分と受領先を手早く確認した。神代さんには頼まなかった。彼女はこのあと、負傷者の搬送側へ戻る。
誰が持ち出したかを俺の記憶だけに頼る荷物は、できる限り減らしていく。
厨房へ戻ると、作業台の天板に小さな傷が目に入った。
改装のとき、棚板を取り落としてつけてしまった傷だ。包丁を使う動線から外れていたので、そのまま使い続けてきた。
そこへ指先を触れていると、背後で神代さんが箱を置いた。
「包丁、入れる?」
「俺がやります」
刃を包み、箱の中で動かないよう収めた。
いつもは裸のまま仕事をする道具が、ただの荷物になった。
◇
美津子さんのトラックは、坂の下で待機していた。
手で運べる荷物だけ、市の搬出担当が外周路を使って降ろしていく。食材のうち保管できる物は、引き取りを承諾してくれた先へ移送する。温度管理を維持できない物は、惜しくても残して処分対象へ分けた。
「煮物は」
神代さんが鍋を見た。
「出せません。火を止めたあとの温度を確認できていないので」
自分で止めた火だった。
それでも、避難してから戻るまでの間、客に食べさせるための衛生管理を保てていたわけではない。
救急の二人へ温かい物を、と考えかけた自分がいた。役に立つ物として扱えば、捨てずに済むと思ってしまったのだ。
鍋の中身を見ないようにして、蓋を閉めた。
外から作業員が残り時間を告げてくる。
神代さんが箱を抱え、俺は予約帳を手に取った。
日曜、六名と一名。
連絡先の電話番号も、そこに書いてある。
「それも持っていくんだ」
「連絡しないといけませんから」
声が少し固くなった。
神代さんは帳面をのぞかず、入口の方へと静かに向き直った。
ふと、食器棚の蝶番に目をやった。
直すと言ったまま、手つかずだった。
工具を取りに戻る距離は、三歩もない。
だが、直した棚を使うためにここへ戻る予定は、もうどこにもなかった。
「行きましょう」
自分自身に言い聞かせるような声になった。
◇
入口の外へ出ると、風が顔に当たった。
岡部さんが、店内に残っている人間がいないかを最終確認する。俺と神代さん、搬出担当がそれぞれ返答し、現場を解体工事の立ち入り管理へと引き渡した。
看板は、先に外されていた。
『食事・休憩・装備相談』。
壁に掛かっていたときは気にならなかったが、足元へ下ろされると案外大きい。持ち出す荷物の中で、いちばん場所を取っていた。
「これ、預かります」
搬出担当へ看板を渡したとき、裏側に残る古いネジ穴が見えた。
その穴を、俺はいつまでも眺めていた。
宮前さんの電話が鳴った。
医療側からの定時連絡だった。待機中の負傷者二名は、再確認でも急変なし。応急処置を継続しつつ、下側で待機する車両と連絡を保っているという。
俺は、その報告を最後まで聞いた。
電気とガスの遮断を終えた確認が返る。所有者側と行政の判断も済んでいた。あとは、工事を行う者たちの仕事だった。
俺は手の中の鍵を差し出した。
「この厨房を、通してください」
岡部さんは鍵を受け取り、うなずいた。
「着工します」
岡部さんが工事担当へ告げた。
誰かが俺の決断を褒める声はしなかった。
その方がよかった。
店の前に残るのは、岡部さんと工事担当だった。神代さんは負傷者の搬送側へ戻り、俺は下の臨時連絡所へ移る。歩いて下りた六名と店の客二人の到着確認をまとめる役目だった。
「終わったら、下で」
神代さんが言った。
「はい。待っています」
いつもの店の中ではないが、待ち合わせる場所は決められた。
外周路を下り始めると、背後から重機の音が響いてきた。
振り返ればすぐに見える角だった。
俺は予約帳を鞄の奥へしまい、前の人が踏んだ場所へ足を置いた。




