店を残したまま、帰せませんか
小型の車は、角を曲がった。
俺が息を吐くより先に、医療担当が荷台を見た。
「この車には、担架を固定できません」
業務用の小さな運搬車だった。下側の作業所から、所有者の了解を得て上げてもらった。空の荷台には、確かに人一人を横たえるだけの長さがある。
俺は寸法のメモを握ったまま、その先を聞いた。
「固定具をつければ」
「人を載せて下る車として確認されていません。固定だけでなく、揺れと制動もあります。今いる二人の搬送に、その場で使う判断はできません」
運転してきた作業員も、うなずいた。
「道具を運ぶときでも、坂ではかなり揺れます」
俺はメモの車名を一本線で消した。
車が入ることを、答えにしたかった。
歩ける六人は、すでに下へ着いていた。市の中央から、全員の到着と再確認の報告がある。こちらに残ったのは、医療担当が診ている二人と、その搬送を支える者たちだった。
神代さんが、空の担架を下ろした。
成瀬さんと搬送員二人で、外周路の試験を終えたところだった。
「途中までは運べる。でも、下の狭い坂で傾く」
彼女は言い終えてから、自分の手袋を外した。
力が足りなかった顔ではなかった。
医療担当が、記録した傾きと揺れを確認する。腰を痛めた人を、このまま通すことは勧められないという。移動中に状態が悪くなっても、横へ退ける場所がない。
「持つ人数を増やしてもですか」
「人が並べる幅がありませんでした」
成瀬さんが答えた。
俺は、担架の横に立つ自分の場所を図面の上で探した。線の外へ、指がはみ出た。
「途中を広げる工事は」
岡部さんが首を振った。
「そこは斜面側の支えから作り直す必要があります。こちらの建物側を開ける案より時間がかかります」
空から運ぶ要請も出ていた。だが、現地の風で、今は来られない。消防は状況を確認し続けているが、飛べる時刻を約束することはできなかった。
天気が変わるのを待つ案を、予定時刻のある搬送と同じ欄へは書けなかった。
◇
俺は救急の待機区画へ行った。
脚を負傷した人は、毛布の上へ両手を出していた。班長の坂井さんが、その隣で靴の紐を握っている。
「六人、下へ着きました」
伝えると、坂井さんの肩が下がった。
本人は腰を痛め、まだ横になっている。
「そうですか。じゃあ、こっちは最後で」
「順番は医療側が決めます。自分で後ろへ回らなくていいです」
言ってから、手に持っていたメモを裏返した。
俺は、何を先に残そうとしていたのだろう。
坂井さんが、店の方へ目を向けた。
「あそこで待つんですか」
「いいえ。ここでお願いします。建物の確認が済んでいません」
「カレーの匂いがしたから」
煮物に使う玉ねぎを炒めた匂いが、まだ残っていたのかもしれない。
食事の可否を判断するのは医療担当の仕事だ。俺は、退院したら食べに来てください、と言いかけた。
口を閉じた。
約束できる場所が、まだ決まっていなかった。
医療担当が二人を再確認し、今の状態と、悪化時の連絡方法を宮前さんへ伝えた。待てるあいだに安全な搬送路を作る。待てなくなれば、その時点で手段を変える。
店を残せる答えが出るまで待ってもらうのとは、違った。
◇
岡部さんは、所有者側の工事担当と話を終えていた。
昨日の調査資料を使い、必要な撤去範囲と、作業前の電気・ガスの遮断、資材の入り方を確かめている。
「壁を抜くだけではありません。厨房側の屋根と柱も対象です。残る部分も、そのまま飲食店として使うことはできません」
何度聞いても、同じ場所が対象になった。
「どれくらいですか」
「着工できる状態にしてから、車を通すまで四時間を見ています。途中の確認で延びる可能性もあります。道路の本復旧は今日中には無理です」
四時間。
その数字は、俺が適当に埋めた希望ではなかった。だからこそ、短いとは言えなかった。
宮前さんは医療側へ見通しを伝え、待機場所と搬送判断の継続を確認した。二人の容体が変われば、工事の都合で待たせない。
下側では車両を待機させ、歩行路は工事中も別に保つという。
「所有者の承諾を得る手続きは、担当がいま進めています」
宮前さんが俺を見た。
「真壁さんには、ご自身の営業と設備についてお話しする必要があります」
俺はすぐに返事をしなかった。
カウンターの端が、窓越しに見えていた。
あそこには、鉛筆が一本置いてある。昼の予約を書いたあとで、そのままにした。
「少しだけ、神代さんと話せますか」
宮前さんはうなずき、医療の待機区画へ戻った。
◇
神代さんは店の前に立ったまま、俺が話し始めるのを待っていた。
「全部、持っていけませんね」
最初に出たのは、そんな言葉だった。
「冷蔵庫も、台も。棚は外しても、次の場所に合うか分からない」
「うん」
「半年かかったんです。ようやく、誰が来ても飯を出せるようになってきて」
神代さんは、建物を見た。
「私も、ここがいい」
胸のどこかが、軽くなるのとは反対の動きをした。
彼女があっさり諦めてくれれば、自分の未練だけを処分すればよかった。
「それでも、二人を下へ運びたい」
神代さんの視線が、俺へ戻った。
「真壁さんは?」
店の中をもう一度見た。
食べに来る人の顔は、いつもあの椅子の上にあると思っていた。
今日は外で横になっている。
「……運びたいです」
口にすると、次の言葉がようやく出た。
「ここを残したいから、もう少し待ってくれとは言えません」
神代さんは、俺の手にあるメモへ目を落とした。
小型車、分けて運ぶ、人を増やす。消した線が重なっていた。
「それ、捨てないで」
「失敗した案ですよ」
「考えたでしょ。残すためにも」
俺は紙を折った。
店を守る努力をしなかったことにまで、しなくてよかった。
宮前さんを呼ぶと、彼女は電話を終えてこちらへ来た。
「俺の営業を続ける条件は、外してください」
声が途中で止まりそうになった。
それでも、最後まで言った。
「設備を残すために、道を狭めなくていいです。持ち出せる物を出して、明け渡します」
宮前さんは、すぐに書類を差し出さなかった。
「補償の話は残します。救助のためだから、何も請求しないという意味にはしません」
「お願いします」
神代さんが俺の隣で、短く息を吐いた。
俺はポケットの鍵を握った。
開店するためではなく、中の物を出すために使うことになる。




