帰る道から、車が消えた
揺れが収まっても、吊った鍋はまだぶつかり合っていた。
「火、止めます」
返事を待たず、コンロを切った。
火曜の午前九時過ぎ。朝の片づけを終え、昼の煮物に取りかかったところだった。客は二人。俺は出口までの床を見て、落ちた蓋を足で脇へ寄せた。
「外へ。段差があります」
一人が財布を取りに戻りかけた。
その腕へ触れるより先に、もう一人が財布を持ち上げた。
「これだろ。行くぞ」
二人を店先の開けた場所へ出し、厨房と客席を見回す。俺が最後に外へ出たとき、地上構内の警報が鳴り始めた。
電話は、すぐにつながった。
『迷宮内の構造変動を観測。地上の路面にも変状があります。入域を止め、作業者を撤退させています』
宮前さんの声だった。
「こちらは客二名と俺、三名とも外です。今のところ怪我はありません」
『帰路亭の中央照合は市へ移します。建物の確認前に営業へ戻らないでください』
いつもの連絡先へ、店にいた人数と見えた状況を伝えた。
それからようやく、車道の方を見た。
曲がり角の向こうに、茶色い土がせり出していた。
日曜に作業員が見ていた路肩が落ち、その上の舗装が途中で折れている。通れそうな端を探しかけて、やめた。俺が目で測って決める場所ではない。
上がってくるはずの救急車の音は、下で止まった。
◇
岡部さんが来たのは、それからしばらくしてだった。
昨日の追加調査にも来ていたので、構内にいた設備担当と連絡が取れたという。道路担当の確認で、通常の車道は車も人も通さないことになった。
「ここまで、どこから来たんですか」
「外周の管理道です。歩行の確認が取れた区間を上がりました。車は下に置いています」
日曜に歩いた道だった。
狭い角を越えれば、先には町へ下りる道がある。
「救急車は、あの角の下まで?」
「来られます。上へは入れません」
岡部さんは、厨房の壁を見た。
俺も同じ方を見てしまった。
宮前さんから、撤退の集計が届く。
東側の地上出口へ向かった設備班八名。別の出口から下側へ退避した講習班は、すでに担当が確認している。北線には誰も入れていない。
今回この構内で受けるのは、設備班八名だった。
『八名とも地上へ出ました。うち二名は歩行での移動が難しく、救急員が確認中です』
「救助側は」
『神代さん、成瀬さん、医療二名が合流しています。ほかの作業区画は各担当が確認を進めています』
地上へ出た。
ひとまず息を吐いたあと、下で止まった救急車を思い出した。
「受け入れ先から下までの移動を、こちらで見ます。建物へは入れません」
宮前さんの了承を聞き、店先の客へ下りる経路を伝えた。二人は誘導員と一緒に歩いていく。「会計は」と振り返った一人へ、あとでいいです、と答えた。
食い逃げではない。避難だった。
伝票はポケットに入れた。
◇
設備班は、旧ゲート前の広い場所に設けた救急の待機区画へ移っていた。
国の封鎖錠の内側ではない。迷宮から出た人が、車に乗れずにいる。
神代さんが俺を見つけ、手を上げた。
「八人。ここにいる」
椅子に座った六人と、担架の二人。
医療担当へ先に話を聞く。二人とも会話はできるが、一人は腰を痛め、もう一人は脚を負傷していた。移動方法は医療側が決める。俺が歩かせて数を減らす話ではなかった。
「すぐ下へ運ぶ必要がある人は」
「今の確認では、二人ともこの場所で処置しながら待てます。ただ、何時間でも同じとは言えません。変化があれば搬送方法を見直します」
医療担当は、俺の顔ではなく担架の人へ視線を戻した。
俺も、時間があるという都合のよい部分だけを持ち帰らないよう、言葉を繰り返して確かめた。
成瀬さんが、外周路から戻ってきた。
空の搬送具で、下までの移動を確認していた。
「角だけではありません。その先の下りで、手を替える場所が要ります」
日曜に歩いたときには、自分の足で下りることしか考えていなかった。
寝かせた人の重さを受けたまま、坂の途中で持ち替える。俺は、空の搬送具についた土を見た。
「歩ける六名から下へ。付き添いと到着確認をつけます。二名の方法は、医療と一緒に決めたいです」
神代さんがうなずいた。
全員を同じ時刻に動かすことは、全員を守る条件ではない。
六名の最初の組が出発すると、一人が振り返った。
「工具、置いたままなんですが」
「置き場所を担当へ伝えてください。今は取りに戻れません」
「明日も仕事で」
その先を、俺は遮らなかった。
男は自分の手を見て、何も持っていないことを確かめるように握った。
「……分かりました」
道の下に着けば、何もかも元どおりというわけではない。
それでも、今はそこまで帰ってもらう必要があった。
◇
帰路亭の前へ戻ると、美津子さんから着信があった。
『便は下で止めています。こちらは航と二人、怪我なし。荷物をどこへ回すか決まったら連絡をください』
「今日は営業を止めます。食材は納品せず、いったん持ち帰ってもらえますか」
『分かりました。受け取り済みにはしません』
いつもならありがたい返事だった。
今日は、昼の仕込みがそこで切れた。
電話を終えると、岡部さんが別の図面を持ってきた。日曜の紙より大きく、建物の柱の位置まで描かれていた。
「昨日、所有者側から建物の調査資料が届きました。通常路の復旧より早く車を通す案として、ここの撤去を検討しています」
指が厨房側をなぞった。
壁一枚ではなかった。
「柱までですか」
「そこを残すと、車が曲がれません。撤去すれば、この厨房は使えなくなります」
口が乾いた。
昨日まで、油の缶をどこへ置くか考えていた。
「まだ、ほかの方法も見ています」
岡部さんが言った。
俺はその言葉へ、思った以上に強くうなずいた。
「小さい車の案を。店を残したまま使えるものがないか、もう一度お願いします」
神代さんが、俺の隣へ来た。
否定もしなければ、すぐに賛成もしなかった。
「私も見る」
俺たちは図面を挟んで立った。
厨房の中では、火を止めた煮物が冷めていた。




