人を数える装置から、人を外した
「ここは、人の名前ではありません」
八代さんが言った。
机に置かれた一覧の表題には、『優先保全対象』とある。俺が目を凝らしていた文字列は、人の名ではなく設備の管理番号だった。
「型式番号と、試験データの記録媒体です。人員の退避先ではありません」
金曜の午後、俺たちは再調査用の会議室へ戻っていた。
午前に現地で確認した空間に、別系統の記録を合わせる。八代さんには、保全済み資料に記された契約上の表記を読み解いてもらうために来てもらっていた。
彼女の前にあるのも紙の写しだった。本社のシステムへ接続し、都合よく答えを取り出しているわけではない。
「この控えは、前の調査で外部へ保全したものです。昨日照会のあった番号から、対象を絞りました」
八代さんが書類の束から一枚を抜く。
発信部署は本社の深層技術系統。宛先は現場統括。乾式試験区画を隔離し、設備と取得データを保全するよう求める文面だった。
それとは別に、榊原から地上当直へ送られた北線受け入れ終了の連絡票がある。
浜田さんが手元に控えていた番号とも合っていた。
「本社の票は設備保全の要求で、人を受ける側の閉鎖を直接命じた票ではないんですね」
俺の問いに、八代さんはすぐうなずかなかった。
「本社のこの票が、閉鎖操作を直接命じているとは書けません。ただ、現場へ設備の保全を優先させた記録ではあります」
「その区別は残します」
「お願いします。私にも都合の悪い区別ですが」
八代さんは別の欄を示した。
『再使用状態の維持』
「単に破損した箱を残すのではなく、次の試験でも使える状態を求めています」
午前に見た、床に残された仕切りの跡を思い出した。
担架は通る。だが、人を受け入れれば、試験の環境と機材は守れない。
最初から、同時に満たせない条件だったのだ。
俺は宮前さんへ、地上側の人員の退避記録について尋ねた。
「受け入れ建屋の荷役業者は」
「保全担当から照合結果が届いています。受け入れ建屋内の荷役人員は、閉鎖指示より前に外へ退避しています。事業者の退避確認と、門の記録が一致しました」
俺は記載された時刻を目で追った。
十三時十八分。
浜田さんのいた管理棟まで無人になった、という記録ではない。受け入れ建屋にいた荷役人員の退避時刻だ。
その後、十三時二十二分に北線から応答があった。高梨さんは、十一人いると聞いたと証言している。十三時三十四分に受け入れ終了。
受け入れ建屋にいる人を逃がす時間と、迷宮から来る人を迎える時間が、別々に扱われていた。
「受け入れ建屋の人を残したまま、機材を取りに戻った形跡は?」
「この時間帯の記録にはありません。設備の搬出は後日の別作業です」
机の上に並んだ紙から、人のいた場所を一つずつ拾っていく。
人がいなくなった部屋には、守る対象がなくなるわけではない。
ただ、そこに残ったものの名前は、人の名前ではなかった。
◇
「……何の試験だったんですか」
俺は八代さんへ尋ねた。
「測位と、記憶を補助する技術です」
「記憶を」
隣で神代さんが低く繰り返した。
八代さんは、既に保全されている試験概要を開いた。深層晶の脈動に対し、位置情報と行動の記録を補正する。そこまでは、危険な迷宮で役に立つ目的だった。
「目印を見失った人に、進んだ方向を返す。報告の抜けを、記録で補う。実用になれば帰還の支援に使えます」
俺は黙って続きを読んだ。
人が覚えていない道を、機械が覚えている。その発想自体が悪いとは思わない。俺だって、他人の記録に助けられてきた。
だが、注意事項にある文章で目が止まった。
高密度の脈動下では、曝露中に形成される記憶と電子記録に欠損が生じる可能性。
六年前の試験資料にも、その危険が書かれていた。
白峰隊と羽鳥さんの、戻っていない時間。
会社が当時作成した資料には、俺たちより前から疑う材料があった。
「当時、危険の情報は現場統括へ渡っていましたか」
「受領先の記録はあります。実際に誰がどこまで読んだかは、別の確認が必要です」
宮前さんが受領番号を、榊原の指示票と照合する。
資料が現場統括へ届いたことまでは記録に残る。誰が内容を読み、判断へ使ったかは、まだつながらない。
「人を帰すための試験なのに、人が帰る方を閉じた」
神代さんの声が低かった。
八代さんは反論せず、試験概要を伏せた。
「設備には、費用も、次の仕事も結びついています。失えば研究が止まり、契約も失う。その損失を避ける指示を、私は理解できます」
彼女の腕時計が、机の縁へ触れた。
八代さんはそれを直してから、俺を見た。
「ですが、それで帰還人数が確定することはありません」
俺はうなずいた。
何を惜しんだかを理解することと、そのために閉じてよかったと言うことは違う。
浜田さんが、持ってきた当直控えへ目を落とした。
「私は、榊原さんから届いた連絡票にある保全対象を確認しました。閉鎖した後で、どこまで保持できたかも」
「人員の確認は」
「本部が続けると思っていました」
昨日と同じ答えだった。
だが今日は、照合した資料に、未帰還者を引き受けた別拠点への引き継ぎ記録がないことも分かる。
十三時二十二分の応答を受けた高梨さんには、十四時十分、配置へ戻るよう指示が出ていた。そこにも受け入れ先の引き継ぎはない。
浜田さんは、調査担当に向き直った。
「さっきの言い方を、直してください。続けると思っていた、ではなく、続ける先を私は確認していません」
調査担当が書き直し、本人へ読み返した。
浜田さんは最後まで聞いて、うなずいた。
その場で、刑が決まったわけではない。誰かに許されたわけでもない。
けれど、主語のなかった仕事が一つ、人へ戻った。
◇
夕方、照合結果の読み合わせが終わった。
当直記録と本人申告が、操作した人を示す。
榊原から地上当直へ出た連絡票が、受け入れ終了を命じた人を示す。
本社技術系統の設備保全票が、現場統括へ求めた保全対象を示す。
第三者の退避記録が、受け入れ建屋内の荷役人員が先に退避したことを示す。
これらを合わせた調査結果は、翌日の確認へ回される。誰がどこまで知っていたかは、別の問いとして残った。
俺は鞄へ手を伸ばし、机の上の水が半分残っていることに気づいた。飲み終えてから、ようやく立った。
神代さんはもう上着を着ていた。
「お店、戻る?」
「はい。夕方の分を仕込まないと」
「その前に、何か食べよう」
「店で食べれば」
「店へ帰ると、先に作るでしょ」
反論の順番まで、読まれていた。
駅へ向かう途中で、温かい肉まんを買った。二つ分の包みを受け取ろうとすると、神代さんが片方を先に持った。
「代金は」
「帰ったら、お茶淹れて」
それなら、俺にも出せる。
歩道の端に立ち止まり、紙包みを開いた。湯気で指が熱くなった。
明日は、揃った事実をもう一度聞く。
今日のところは、冷めないうちに食べる仕事が残っていた。




