担架を通すと、機械が使えなくなる
畳んだ状態の担架なら、扉を通った。
だが、広げた途端、通路の角でつかえた。
「このままでは曲がりきれませんね」
成瀬さんが言い、後方を支えていた神代さんが足を止める。人は載せていない。留め具に指を挟まないよう、二人は一度担架を床へ下ろした。
金曜の午前。俺たちは迷宮の外にある、旧北線受け入れ建屋へと来ていた。管理者が立ち会って解錠した地上側の作業区画だけを確認する。北線へ通じる扉は施錠されたままで、作業許可の停止も続いている。
「ここが当時の一般通路です」
浜田さんが壁の案内図を指差した。
人が歩く動線は細く、資材の搬送路は太い線で描かれている。図面上では、どちらも同じ出口へ向かっているように見えた。
しかし、現実に今見た角では、広げた担架が回らなかった。
「持ち上げれば通せますか」
俺が尋ねる。
「天井の配管に干渉します」
成瀬さんが頭上を示した。
神代さんも無理に通そうとはしなかった。一人で持ち上げられる重さであることと、通路を通せる形であることは別問題だ。
俺は持参した当時の旧手順書を開いた。通常の帰還者はこの通路を使わず、北側中継庫側の受け入れ口へ向かうことになっていた。建屋内の一般通路を、負傷者を含めた全員の退避路として想定した計画ではない。
本来の受け入れ口を閉鎖したあと、ほかに何を残す余地があったのか。
今日は、それを見極めに来ていた。
「資材搬入路側を見せてください」
管理者が隣の重い扉を開けた。
こちらは広かった。壁際に空の搬送台車が寄せられており、その先まで床が続いている。
神代さんと成瀬さんが担架を持ち直した。今度は進行方向を変えることなく、通り抜ける。
「こっちなら行ける」
神代さんが言った。
だが、俺はすぐには頷けなかった。
床に、かつて固定されていた仕切りを撤去した痕跡が残っていた。一列に並んだボルトの穴と、帯状に色の違う壁面。今でこそ一続きの広い空間に見えるが、当時もこの状態だったとは限らない。
成瀬さんへ、その床の跡を示した。
「ここに隔離の仕切りがありました。人をこちらへ受けるなら、乾式区画の保護を解除する必要があります」
「機材を守ったまま、手前の通路だけを使うことは?」
「当時の構成では無理です。切替図面も、そうなっています」
浜田さんが、足元の小さな金属プレートを指差した。
『緊急受け入れ切替』
刻印の文字は擦り切れていたが、判読できた。
昨日、浜田さんが言っていた床の位置とは、ここのことだった。
◇
宮前さんは、当時の施工図と現在の写真を同じ向きに並べて広げた。
浜田さんが位置を特定し、成瀬さんが設備の用途を確認していく。俺はその図面上で、担架を搬送する手順をなぞった。
「もし当時、こちらへ受け入れていたら何が起きていましたか」
成瀬さんは少し間を置いた。
「試験用の清浄環境は失います。汚染の程度によっては、設備を再使用できなくなったでしょう」
「その場で爆発する、という意味ではないですね?」
「少なくとも、残された切替手順書にそうした危険の記述はありません。ただし、事故当日の圧力と濃度は、別途確認が必要です」
俺は図面へ視線を落とした。
ここを開放していれば全員が助かったのだ、と言いたくなる。だが、そう断定するための材料はまだない。
事故当日、彼らが自力でどこまで歩けたのか。担架を運べる人がいたのか。地上側へ収容したあと、医療へつなげられたのか。
六年前の空白は、現在の床を歩いただけでは埋まらない。
「この検証は、当時の生還を保証するものではありません」
宮前さんが記録の読み上げを止め、こちらをまっすぐに見た。
「分かっています」
短く答えてから、もう一度言葉を重ねた。
「ですが、地上側に受け入れる案そのものがなかった、という説明も成り立ちません」
成瀬さんが静かに頷いた。
「設備を捨てる判断を受け入れれば、受け入れを検討できる構成ではありました」
神代さんは担架を下ろし、切替位置の手前に立っていた。
「ここに置いてあったの、何?」
「深層晶の校正装置です」
浜田さんが答える。
「記憶と位置のずれを調べるための。詳しい中身は、技術室の担当でした」
神代さんの視線が、俺へと向けられた。
白峰隊が失った空白の時間と、名簿に載らなかった帰還札のことが、俺の脳裏にもよぎっていた。
「その機械が壊れるから、通さなかったの?」
浜田さんは、少し遅れて答えた。
「私のところへ来た指示は、区画の保全でした」
「何を守るかは聞いた。でも、誰が戻れなくなるかは聞いたの?」
浜田さんは答えなかった。
昨日も同じような問いかけがあった。だが今は、会議室の紙の上ではない。
担架一台が実際に通り抜けた、現場の床の上に立っている。
神代さんは成瀬さんと息を合わせ、担架を手早く折り畳んだ。
慣れた手つきだった。水曜の救助では、その上に柴崎さんがいた。
俺は浜田さんに向き直り、まだ確認していない記録について尋ねた。
「地上側の人員が退避した時刻は、照合できますか」
「当時の荷役の立ち会い記録が残っていれば。設備の業者が別にいましたから」
「会社の通常の当直日誌とは、別の管理ですね」
「はい」
宮前さんが手元の端末へ照会先を控えた。
人命を守るために閉じるしかなかったのか。それとも、もう人のいない部屋の資産を守るために扉を塞いだのか。
その境界は、今ここにある憤りだけで決めるべきではなかった。
管理者に鍵を返却し、全員が地上側の門の外へ出たことを確認する。実地検証のために誰かを危険な区画へ取り残すような真似はしない。扉も設備も、足を踏み入れる前と同じ状態に戻してある。
正午が近づいていた。
「昼飯にしましょう」
俺が切り出すと、浜田さんは居心地悪そうに首を振りかけた。
「午後からも調査の続きがあります。食べない理由にはなりませんよ」
それだけ言い、俺は先に歩き出した。
◇
帰路亭へ戻ると、早瀬運送の台車が入口脇に停まっていた。
航さんが空の通い箱を積み上げている。美津子さんは、店の外で次の配送先と電話でやり取りをしていた。
「おかえりなさい。今日は何人分ですか?」
航さんが尋ねてくる。納品する弁当の注文数を気にしているらしい。
「今日は現地調査です。新しい救助事案ではありませんよ」
「あ、そうなんですね」
拍子抜けした顔に、張り詰めていた気持ちが少しだけ救われた。
毎日誰かを救い出して帰らなければならないわけではないのだ。
美津子さんが通話を終えて歩み寄ってきた。
「北線の入域禁止、いつ解除されるかまだ見通しが立たないそうですね。荷物の受け取り場所が変わるなら、明日の朝までに連絡をください」
「状況が分かり次第、すぐにお伝えします」
約束できるのはそこまでだった。
不確定な再開見込みを口にして、運送屋のトラックを一日空けさせるわけにはいかない。
昼の定食を用意する間、神代さんはテーブルへ人数分の水を運んでくれた。浜田さんの席の前にも、同じようにグラスを置く。
俺は鍋を火にかけ、自分の厨房を見渡した。
半年かけて調理の動線を整え直した。棚を取りつけ、冷蔵庫の配置を決め、借り物の空き店舗を少しずつ自分の仕事場にしてきた。
あの試験区画を失いたくなかった人間にとっても、そこには費やした時間があったのだろう。
そう思うと、気分が悪くなった。
「どうしたの」
神代さんが背後から声をかけてきた。
「機械が惜しいと思う気持ちは、分かってしまうんです」
彼女は静かに厨房の設備を見回した。それから、俺へ目を戻す。
「惜しくても、決めるんでしょ」
俺はすぐには答えず、温めておいた椀を盆に並べた。
設備や営業時間を捨てたことはある。それでも、厨房そのものを失う側には、まだ立ったことがなかった。




