閉鎖ボタンを押した人が、朝食を頼んだ
米袋を抱えた青年が、入口で立ち往生していた。
「これ、どこへ置けばいいですか」
「厨房の手前にお願いします。床には直置きしないでください」
「分かりました!」
返事の勢いだけはよかった。だが、直後に野菜の箱を抱えた女性が入ってくると、青年は振り返ったまま通路を塞いでしまう。二人分の荷物が、狭い入口でつかえていた。
「航、そこに突っ立ってたら私が通れないでしょ」
「置く場所を聞いてたんだよ」
「聞いたらすぐ動く!」
俺は入口近くの椅子を一つ引いた。青年が横歩きで通り抜け、女性がその後に続く。早瀬運送から、今日初めて配達にやってきた二人だった。
「母です」
青年が米袋を台へ置きながら紹介した。
「仕事中は社長と呼びなさい」
女性がすかさず訂正する。
どちらへ先に挨拶を通すべきかは、一目瞭然だった。
早瀬美津子さんは納品書を広げると、品目を確認するより先に、箱の底が濡れていないかを確かめた。息子の航さんは台車を外へ戻し、手際よく空の通い箱を回収していく。
「北線の作業が止まったので、今日からうちのトラックがこちらへ回ることになりました。配送時間、このくらいで大丈夫ですか」
「助かります。荷受け自体は俺がいなくても回せますが、置き場所だけは変えないようにお願いします」
「置き場所が毎回変わる店は、荷物より説明を運ぶ時間のほうが長くなりますからね」
昨日まで、俺自身が他人へ言い聞かせていたような台詞だった。
北線の作業許可は、現在も停止されたままだ。昨日の保守班四人は無事に帰り、救助事案そのものも閉じた。だが、今日届くはずだった物資や、そのために空けてあった配送車までが、自動で別の仕事へ切り替わってくれるわけではない。
美津子さんは納品の署名を受け取ると、航さんへ顎で合図を出した。
「次、行くよ」
「え、朝飯まだなんだけど」
「次の現場を下ろしてから!」
そこへ、食べ終えた膳を持った神代さんがやってきた。
「その返事、よく聞く」
こちらを見なくても、誰のことを言っているのか分かる口調だった。
俺は二人へ、「持ち帰りのおにぎりなら、すぐに出せますよ」と声をかけた。美津子さんが腕時計を確認する横で、航さんがすかさず「三つお願いします!」と頼む。
「一つは社長の分ね」
「私は二つ食べるよ」
航さんの三つのうち、美津子さんの分を一つから二つへ増やす。合計四つを包んで代金を受け取り、二人が慌ただしく店を出ていくと、客席には焼いた海苔の香ばしい匂いだけが残された。
木曜の朝は、昨日と比べれば穏やかだった。
できることなら、穏やかなままで終わってほしかった。
午前八時を少し回った頃、男が一人、静かに店へ入ってきた。
作業着姿ではない。くたびれた薄い灰色の上着を羽織り、使い込まれた革鞄を抱えている。入口から店内を見回し、カウンターのいちばん端の席へ腰を下ろした。鞄を置いてからも、両手は革の取っ手を握ったままだった。
「朝の定食をお願いします。ご飯は、少なめで」
「焼き魚でよろしいですか」
「はい」
聞き覚えのある声だった。
だが、顔を見ても、名前まではすぐに出てこなかった。
俺が茶を差し出すと、男は湯呑みへ伸ばしかけた手を引っ込めた。
「浜田です。六年前、地上の設備当直にいました」
浜田浩一。
夜間に機材の貸し出しを頼むと、返却予定の時刻を必ず確認してきた人だ。「使っていい」と先に許可を出してから、返す段取りをきっちりと詰めてくる。
「……お久しぶりです」
俺の返事を聞くと、浜田さんの強張っていた肩が、わずかに下がった。
「昨日、市の担当者から北線の件で照会が入りました。古い終了操作の記録についてです」
厨房の焼き台で、魚の脂が小さな音を立てた。
俺は火力を絞った。
「先に、担当の方へ申告しました。ここで真壁さんにだけ話すのは違うと思って」
「何を、ですか」
浜田さんは鞄から何も出さず、両手を膝の上で重ねた。
「十三時三十四分。あの端末で終了確認のボタンを押したのは、私です」
厨房からは、魚の焼ける細い音だけが聞こえていた。
昨日まで、「共用の当直資格」という無機質な文字列の中にいた人が、今、俺の店で朝食の焼き上がりを待っている。
何か言葉を返さなければならないと頭では分かっていた。
だが、何を口にすればいいのかが、まったく分からなかった。
「真壁さん。火」
神代さんの短い声で、意識が現実へ引き戻された。
網の上の魚の端に、濃い焼き色がつき始めていた。焦げ付いてはいない。だが、あと少し目を離していれば、客に出せなくなっていただろう。
俺は魚を平皿へ移し、小鉢を添えた。
茶碗に飯をよそう。
「……少なめ、でしたね」
「はい」
よそう手を止め、一口分だけおひつへ戻した。たったそれだけの動作を、やけに慎重になぞっていた。
◇
膳を目の前に置いても、浜田さんはすぐには箸を取ろうとしなかった。
「謝りに、来たんです」
俺はカウンターの上に置きかけた手を下ろした。
「話を聞くことはできます。ですが、今この場であなたを許すような言葉はお返しできません」
「それで構いません」
「食事、冷めますよ」
浜田さんがようやく箸を取る。
俺は厨房へ戻り、洗い場の水を出した。洗うべき食器はある。手持ち無沙汰をごまかすために、無駄な作業を探す必要もなかった。
神代さんはカウンターの反対側の端に座っていた。浜田さんを睨まず、俺の顔も見続けない。湯呑みを両手で包んだまま、こちらから声をかけられる場所にいる。
「今、お仕事は何を」
俺が尋ねると、浜田さんは口のものを飲み込んだ。
「別の設備会社です。もう、迷宮には関わっていません」
「そうですか」
俺にも、迷宮から離れていた時期があった。
同じだとは思わない。ただ、それ以上にかける言葉が見つからなかった。
浜田さんは、焼き魚の小骨を箸で拾い、皿の隅へ一本ずつ揃えていた。昔から親しい間柄だったわけではない。それでも、番号だけを相手にしていたときより、腹が立った。
この人には、事故のあとも六年分の朝があった。
「あの操作をしたとき、中に何人残っていると聞いていたんですか」
浜田さんの箸が、ぴたりと止まった。
「……未確認、と」
「ゼロではなく」
「はい」
俺は蛇口を捻り、水を止めた。
胸の内に渦巻く疑問を一気にぶつけたかった。誰の指示だったのか。なぜ押したのか。なぜ自分で外を確かめなかったのか。
だが、ここで俺が問いを重ねれば、浜田さんは目の前の俺に許されるための答えを探し始めてしまうかもしれない。
「宮前さんへ連絡を入れてもいいですか。あなたがここへ来たことと、今の話を共有したい」
「……お願いします」
俺はその場ですぐに端末を取り出した。宮前さんは、関係機関への本人の申告を確認したうえで、改めて当時の記録と照合する場を設けると答えた。
今ここでの私的な会話と、正式に残す証言は分ける。
通話を終えるまでの間、浜田さんは箸を止め、目の前の膳を見つめたまま待っていた。
「俺が話を聞き終えるまで、食べるのを待たなくて大丈夫ですよ」
「すみません……」
その謝罪には応えず、湯呑みへ温かい茶を注ぎ足した。
食事を出したからといって、あの日のことを受け入れたわけではない。だが、食事を止めて、答えを引き出すつもりもなかった。
浜田さんは、少なめに盛られた飯を最後まで食べた。
会計で紙幣を出し、釣りを受け取り、革鞄を持つ。そのどれも、普通の朝の客と変わらなかった。
「また、改めてお話しさせてください」
「担当部署で、当時の記録と事実を突き合わせてからにしましょう」
浜田さんが店を出ていってから、俺は膳を下げた。
平皿の隅には、丁寧に揃えられた魚の骨が残されていた。
神代さんが立ち上がる。
「洗う?」
「俺がやります」
「分かった。じゃあ、お茶淹れる」
洗い場へ皿を置き、俺は少し間を置いてからうなずいた。
手元の携帯端末が小さく震えた。宮前さんからのメッセージだ。今日の午後の照合へ、俺も同席できるかという確認だった。
返信を打つ前に、神代さんが目の前へ置いてくれた茶を一口すすった。
あの日、閉鎖のボタンを押した手の主には会えた。
今度は、その手に何を守らせたのかを確かめに行く。




