四人を帰してから、六年前の扉を開く
最初に返ってきたのは、人だった。
次に、四人が借りていた鍵が戻った。
午後三時四十二分。北線管理棟の受話器から、山根さんの声が届く。
『入域原本と四名の帰還札、照合しました。鍵も返却済みです』
宮前さんが帰路亭でその報告を受ける。俺の机の上には塩見さんが読み出した旧盤の履歴があったが、まだ開かずに置いていた。
『柴崎さんは医療班へ引き継ぎ。右足首の評価を続けます。相良さん、長峰さん、藤枝さんは初期確認で異常の申告なし。物流休憩所へ移動します』
怪我が治ったことにはしない。誰が、どこで、次の責任を持つかまで分かれば、迷宮からの帰還確認は閉じられる。
成瀬さんと神代さんの健康確認結果も届いた。二人とも負傷の申告はなし。入域前後の測定を終え、地上側へ戻っている。
『地上担当も確認します』
宮前さんが、今回の対応者を順に呼んでいく。
西口の山根さん。医療担当の二名。物流休憩所の奥村さん。北線管理棟にいる塩見さんと俺。帰路亭で中央表を預かる宮前さん。地上側の七名に、救助班として入域した二名を合わせて計九名。
全員の返答が揃った。
『北線保守班四名、帰還確認完了。救助・受け入れ側九名、確認完了。午後三時五十一分、案件を閉じます』
俺は何も付け加えなかった。
今日も、最後の記録を閉じたのは宮前さんだった。
四人の工具箱と、現場に残された記録器は、今も迷宮内にある。位置情報と写真を添え、回収未実施として人の帰還とは切り離して保全された。人の未帰還欄には残さない。
東側水路班の三名も、今回とは別に管理されていた。北線を終えたからと、そちらまで閉じる操作はしていない。
「これで、読みますか」
塩見さんが、画面に出した履歴を示した。
「はい。お待たせしました」
「四人の帰還が先ですから」
さっき俺が口にできなかったことを、彼はごく自然な調子で言った。
◇
旧盤の液晶表示では、相変わらず日付の欄が欠けたままだった。
けれど内部の記録領域には、時刻だけでなく操作番号が残されていた。塩見さんはそれを外へ読み出し、変更できない複製として市へ渡す。
「現場の記録器と同じ操作番号が、こちら側でも保存されています。すべてではありません。地上側が送信した指示と、それに対して現場から返った応答の記録です」
現場の記録器に何が残っているか、そこまではここから分からない。
持ち帰れなかったことが、都合よく帳消しになるわけではなかった。
ただ、地上で押された操作なら、地上の記録から追える。
宮前さんは帰路亭から、六年前の受け入れ記録の写しを開いた。俺も机に同じものを置く。新しい画面だけで過去の日付を決めず、当時の端末番号、操作番号、その前後に残された通信記録を一つずつ突き合わせる。
塩見さんの指先が、一行で止まった。
「ここです。十三時三十四分。地上の端末で、終了確認の操作を受け付けています」
その直前には、終了候補の表示。
直後には、現場への閉鎖許可送出。
「自動判定が、そのまま送られた可能性は?」
「自動候補と操作受付は、別の欄です。この番号は手動の確認を受けた時に付きます」
喉の奥が乾いた。
ペットボトルの蓋を開けたが、すぐには口をつけられなかった。
十三時二十二分には、現場からの応答があった。高梨さんは地上で待ち、十一人いると聞いたと証言している。
その十二分後、誰かが終わりにした。
「操作した名前は」
自分の声が低くなったのが分かった。
『共用の当直資格です』
宮前さんが答えた。
『この記録だけでは、使った人の氏名を特定できません』
榊原の顔が浮かぶ。六年前の勤務表を思い出そうとした。
名前を一つ置けば、楽になる。
俺は水を一口飲んだ。
「個人名は、まだ入れないでください」
『はい』
「何を見て『終了』と判断したのか。その操作の根拠に使われた資料を追いたいです」
宮前さんが、追加照合の対象を読み上げる。誰が資格を使えたか。勤務交代はいつか。四十分近く後の配置復帰指示を、誰が出したか。
どれも、今は答えのない問いだった。
それでも一つは変わった。
六年前の北線は、ただ勝手に止まったのではない。地上で人の操作を受けて、閉鎖へ進む許可が出た。
今日の旧盤には、その終了状態が残っていた。現場の試験で自動運転へ戻された時、古い状態が再び条件として使われた。今朝の通信接続は、それを中央にも見える形にしたのであって、新しい閉鎖承認を作ったわけではない。
塩見さんが、現場制御との接続状態を確認した。
「今日使われた古い終了状態は、現場制御へ適用されないよう無効にしました」
宮前さんが続ける。
『人員照合と別の検証を通すまで、北線の作業許可も停止しました』
北線を止める。現在の四人を帰した後で、次の人を入れない。
順番を間違えずに、それができた。
帰路亭、救急待機所、物流休憩所へも、宮前さんが同じ扱いを通知した。設備の『終了』は到着や帰還確認の代わりにしない。旧設備の終了候補が来ても、人の欄へ自動で転記しない。
画面の注意書きを増やすだけではなく、その自動転記を止めた状態で運用する。
復旧するには、別の検証が要る。
◇
夕方、帰路亭へ戻ると、神代さんが厨房の前で待っていた。
「お腹すいた」
報告より先にそれを言われ、俺は少し笑ってしまった。
「作ります。厨房には入りませんでしたね」
「入ったよ。火はつけてない」
「ありがとうございます」
「どっちへのお礼?」
どちらへも、と答え、手を洗った。
今日は豚汁と焼きおにぎりにする。昼の仕込みの残りを確かめ、足りない分だけ切り足す。鍋から湯気が立つ間に、神代さんが湯呑みを並べた。
長峰さんたち三人も、物流休憩所で休んだ後に来店していた。相良さんは、医療へ引き継がれた柴崎さんの診察の続報を待っている。食事制限のないことを医療側へ確認してから、三人分を出した。
「柴崎の分も、頼んでいいですか」
「診察が終わって、食べてよいと分かってから温めます」
「じゃあ、取り置きを」
俺はうなずき、厨房へ一人分を残した。
今日は『四人分』と数えても、四人が同じ席へ座るとは限らない。
長峰さんは椀に手を添えたまま、しばらく湯気を見ていた。
「地上から、もう終わってるって言われるかと思いました」
「終わっていませんでした」
「はい。こっちは、全然」
彼女は笑おうとして、代わりに汁を一口すすった。
藤枝さんの手から匙が滑り、床へ落ちた。仕事中なら相良さんは何か言っただろうが、今は黙って新しい匙を頼んだ。
神代さんが、自分の皿を俺の席の隣へ置いた。
「一緒に食べよう」
「あと一つ焼けたら」
「それは私が待つ」
焼き目を確かめて、火を止める。
俺は前掛けを外した。
六年前の記録は、宮前さんたちが引き続き保全している。俺が今夜ずっと眺めていても、共用資格から名前は出てこない。
席へ着くと、神代さんが湯呑みを寄せてくれた。
「戻れなくて、ごめん。記録のところ」
「戻らなくてよかったんです」
彼女は俺の顔を見た。励ましのつもりで言ったのかどうか、確かめているようだった。
「本当に、そう思っています」
今度は迷わず言えた。
神代さんは小さくうなずき、焼きおにぎりを半分に割った。
相良さんの端末が鳴る。柴崎さんの診察の続報だった。彼は席を外し、戻ってきてから柴崎さんの迎えを手配した。
俺は取り置いた一人分を温めるため、もう一度厨房へ入った。
席へ戻ると、俺の椀には蓋がしてあった。




