最強の手を、担架のために空ける
「その箱、いったん降ろせますか」
北線管理棟から西口詰所へ、俺は通話器越しに頼んだ。
成瀬さんが積んだ救助装備に、閉鎖記録器の回収箱が一つ増えていた。
『旧式の記録器が、現場にも残っています。取り外せれば地上の記録と照合できますから』
「運ぶのは誰ですか」
『帰りは神代さんに持ってもらえればと』
答えを聞き、手元にある担架の仕様書へ視線を落とす。怪我人を載せたときの総重量だけでなく、それを支えるための手が要る。
「神代さんには、柴崎さんを運んでもらいます」
回線の向こうで、わずかに間が空いた。
次いで、ごとりと箱が床へ下ろされる音が響く。
『置いたよ』
神代さんの声だった。
『空いてるように見えても、帰りに使う手だから』
誰の手を、何のために空けておくのか。まだ誰も担架に乗っていない段階で決めておかなければならない。現場で目についた機材は、どうしても貴重で持ち帰りたくなるものだ。
ましてや六年前の事故記録なら、俺だって回収したい。
「余裕があれば、場所と機器番号の確認だけに留めてください。回収はまた別の仕事です」
『了解』
管理棟の設備当番が、小さな作業机を俺の側へ寄せてくれた。袖口に白い塗料の跡がついた若い男性だ。塩見と名乗った。
「地上の盤操作は私が引き受けます。画面の表示だけで判断せず、現場の長峰さんが読み上げる計器の値とも突き合わせます」
「俺は移動経路と搬送時間を見ます。操作を頼むときは、どこの誰を守るためか先に伝えます」
塩見さんが力強く頷き、制御盤の前へ椅子を戻した。これでようやく、手元に地図を広げられる。自分が管理するわけでもない操作盤の前に張りついていては、紙一枚置く場所すらない。
午後二時四十六分。宮前さんから救助入域の承認と、中央表の引き継ぎ完了の連絡が入った。
救助班は神代さんと成瀬さんの二名。
西口で入域手続きを記録し、医療班は地上待機とする。これで記録上、保守班四名と救助班二名が明確に切り分けられた。
『入ります』
成瀬さんの声の背後で、車の音が遠ざかっていく。代わりに、靴底の硬い響きが回線に乗った。
俺の手元にある地図では、退避路はN4分岐から第二、第三圧力扉を抜けて退避棚へと続いている。今朝、西口班が戻ってきた折返し路とは別のルートだ。
四人が実際に歩いた道中の状況を、現場の長峰さんに確認する。
『N4から第二扉までは平坦です。ただ、その先にある排水溝の蓋が二枚浮いていました。第三扉の手前は右側に寄って進んでください』
「救助班、聞こえましたか」
『聞こえた。浮いた蓋の二枚は避ける』
神代さんの応答は早かった。だが、走っている息ではない。成瀬さんと一緒に、有線索を延ばしながら進んでいる。
この距離なら、一人のほうが速い。帰りに一人で足りるなら、そうした。
◇
『第二の手前、照明が落ちました』
午後二時五十四分。成瀬さんからの報告だった。
「通話は届いています。いったん止まって、状況確認を」
『予備灯へ切り替えます』
何かが壁を擦る微かな音。
俺は通話器を握りしめ、次の声を待った。
『照明系統のトラブルだけです。扉は開いています』
塩見さんが管理棟の盤面を指差す。こちらのランプも『開』のままだ。
だが、地上の古い盤が『開』を示すだけでは足りない。今そこに立っている人間の確かな視界が欲しかった。
『神代。扉、開いてる。奥に長峰さんの灯りが見えた』
長峰さんが、壁の通話口から救助班の予備灯を視認したらしい。
『こっちです! 第三を抜けてすぐ右。私の足元に段差があります』
俺は口を挟まず、現場同士の通話をつないだままにした。状況が見えていない俺が間に入れば、目の前の段差を警告する声まで遠回りになってしまう。
装備の金具が触れ合う金属音。交わされる短い挨拶。
『合流、四名』
神代さんの静かな声に、張り詰めていた肩の力がわずかに抜けた。
『柴崎さんだけ、右足に体重をかけられない。ほか三名は自力歩行可能。これから成瀬さんが状態を確認する』
宮前さんが手早く医療専用回線を開いた。俺は名前の振られていない経路図の上に『担架1』と書き留める。勝手な診断名は書かない。
医療担当への状況伝達が終わり、柴崎さんは担架で搬送する方針に決まった。頭を打った申告はなく、受け答えもはっきりしている。ただ、立ち上がろうとすると右足首に痛みが出るという。
『荷物は、僕が引っ張りますから』
柴崎さんの声が混ざる。
『車輪、ついてるんで』
『その車輪を、今からあなたに使う』
神代さんの返答はそっけなく、しかし迷いがなかった。
成瀬さんが折り畳み担架の車輪を展開し、固定する音が届く。
すかさず相良さんが口を開いた。
『なら、長峰と藤枝で工具を分担して持とう』
「待ってください」
俺は地図の上にある第二扉の位置を指先で押さえた。
「相良さん、入域時に台車を押した際、その扉はそのまま通過できましたか」
『いえ、枠が高く盛り上がっていたので、持ち上げて越えました』
「担架も同じように持ち上げることになります。お二人には、そのときのための手を空けておいてほしいんです」
回線の向こうで、言葉が途切れた。
四人とも、現場作業へ出たときの装備をそのまま抱え込んでいる。持ち分を放棄することは、誰かに余計な負担を押しつけるように感じてしまうのだろう。
「工具は現在地にまとめて残し、位置を記録してください。置いた責任を、黙って消したことにはしません」
『持ち出し品の番号も残します』
宮前さんが冷静に引き継いだ。
『ただし今、現場で品番を一つずつ読み上げる必要はありません。写真撮影で記録を受領します』
相良さんが短く息を吐いた。
『分かりました。人を運ぶことを最優先にします』
成瀬さんが撮影した現場写真が、市の端末を経由して俺の机へ転送されてきた。画面には、壁際に寄せられた工具箱と、車輪の固定を終えた担架が写っている。
柴崎さんは担架のフレームを握りしめ、自分自身が『運ばれる荷物』の側に回ったことを、まだ受け止めきれないような顔をしていた。
その写真の右奥に、黒い箱が写り込んでいた。
壁へ留められ、封印帯が巻かれている。
『記録器もここにあります。固定番号は読めます』
成瀬さんが告げた。
俺は思わず画面の写真を拡大しかけた。
だが、塩見さんの切迫した声に手が止まる。
「第三扉、差圧の上がり方が速くなりました」
現場の長峰さんにも計器を読み取ってもらう。地上側の監視データと同じ傾向を示していた。地図にメモした往路の移動時間だけを頼りに、帰路のタイムリミットを弾き出すことはもうできない。
「担架の移動で、第三扉から西口までどれくらい見込みますか」
『まだ正確には読めません。ただ第二扉の枠越えと、浮いた排水溝の箇所は持ち上げます。入ってきたときより確実に時間がかかります』
「では、今すぐ動き出しましょう。第三扉を抜けた時点で、もう一度所要時間を計測し直します」
神代さんが現場へ声をかけるのが聞こえた。
『柴崎さん、揺れる場所は手前で教える。痛かったら我慢しないで言って』
『分かりました』
『我慢しても、早く着くわけじゃないから』
柴崎さんの短い笑いが聞こえた。すぐに息を呑む気配がして、担架の車輪が転がり始める。
午後三時八分。六名は退避棚を離れた。
道順を熟知している長峰さんが先頭に立ち、相良さんと藤枝さんが段差を警戒する。そして神代さんと成瀬さんが、柴崎さんを乗せた担架を扱う。
俺は開いていた記録器の写真を閉じた。
広げた地図の上で、六人の歩みが第三扉へと向かって動き出していた。




