店主がいなくても、六人は帰れる
午前六時二十九分。
宮前さんへ手渡した中央表が、食卓から見えていた。
札が一つ動く。俺の指先が、それと同じ幅だけ無意識に机の縁を滑る。手放したはずの表に、まだ未練が残っているのだ。
「血圧、少し低いです」
宮前さんと車で駆けつけた救急員が、健康確認票の欄を指で押さえた。もう一名の救急員は西口の救急待機所に残っている。帰還者二名の手当てをしている側だ。
「平常範囲です」
「朝食は」
「まだです」
「睡眠時間は」
「六時間半」
「平常にはしないでください」
『要休憩』と書き込まれた。負傷なし。魔素曝露なし。判断力に明確な異常なし。ただし、食事と三十分の休息を取ること。
俺は健康だった。健康なまま、仕事から外されるという処分を受けたのだ。
六時三十六分。西口の受付を山根さんへ引き継いだ神代さんが、車で戻ってきた。車の鍵を置く音より先に、彼女の視線が中央表と、俺の前の空の皿へ落ちる。
「中央表は、宮前さんが見てる」
「医療確認がまだ二名残っています」
「知ってる」
「休憩所の四名も、最終確認が――」
「知ってる」
「なら」
神代さんはカウンターへ回り、俺が仕込んでおいたおにぎりを皿へ移した。味噌汁を椀によそる手が少し傾き、蓋の縁に汁が垂れる。
「食べて」
「作ったんですか」
「真壁さんが仕込んだもの。私はよそっただけ」
「安心しました」
「失礼」
「神代さんの料理で、受け入れ側の健康確認項目を増やしたくありませんから」
神代さんは反論せず、自分の椅子を引いた。きっぱりと否定しないところを見ると、本人にも自覚はあるらしい。
味噌汁は少しぬるくなっていた。もっと早く座っていれば、熱いうちに飲めただろう。料理は治療ではない。それでも、空腹のまま記録欄を正しく埋め続けられるほど、人間は頑丈にできてはいない。
俺が一口目を入れるまで、神代さんは座らずに立ったまま待っていた。
「食べました」
「全部」
「監督が厳しいですね」
「六人より、一人の方が手がかかる」
心当たりが多すぎて、その『一人』が誰なのかを絞りきれなかった。
有線機が鳴った。
『救急待機所。02、左前腕の痛み、明らかな変形なし。06、右膝痛、歩行は補助付き。二名とも初期確認は終了。確定診断は外来へ引き継ぎ、当日の受診先と付き添いを確保しました』
反射的に立ち上がろうとして、膝が伸びる。
すかさず、神代さんの手が俺の椅子の背へ置かれた。中央表ではなく、椅子の背にかかった掌の重さが伝わってくる。表へは届かない距離だ。
「宮前さんが取る」
『中央、受領。02、06、医療確認完了。西口原本へ専用内線で結果を返してください』
宮前さんの声が、食卓の向こうで重なった。『自分の仕事だ』と思ってしまう癖が、まだ抜けきっていない。だが目の前では、宮前さんが次の欄を困った様子もなく埋めている。ペン先が紙を叩く音だけが、やけに近く聞こえた。
午前六時四十七分。物流休憩所から四名の状態確認が入る。
『01、03、04、05。体温、意識、歩行、異常申告なし。04の工具そりは本人同意で西口保管。預かり票の照合も済んでいます』
工具そりは西口で保管中だ。手元に戻っていない以上『返却済み』とは記録しない。
『西口、帰還原本へ六名の現在地と医療結果を反映。氏名照合六、未照合ゼロ』
宮前さんが一項目ずつ確実に復唱する。その復唱は誰かへの説明ではない。原本と控え、そして医療内線の情報を、決して同じ紙の上に混ぜないための区別作業だ。
『中央表、地上門通過六。医療確認二。症状なし確認四。帰還原本照合六』
そして最後に、受け入れ側の確認が残る。
西口の山根さん。救急員二名と宮前さん。物流休憩所の奥村さん。神代さん。それに、俺。計七名。
『各拠点、受け入れ担当の健康確認を』
『西口、異常なし』
『救急、二名異常なし』
『物流、異常なし。私は朝ごはんも食べました』
『中央、宮前も異常なし。真壁さんは再確認待ちです』
奥村さんの余計な一言に、神代さんがこちらをちらりと見た。見ているのは俺ではなく、皿の上の残りだ。
「比較対象にしないでください」
「負けてる」
「勝負だったんですか」
『神代、異常なし。真壁、要休憩。食事中』
有線機へ向けて、勝手に報告された。中央表を握っていないと、記録の訂正権まで薄くなってしまうらしい。
『食事完了後、三十分の休息を取ってから再確認とします』
宮前さんが淡々と言った。
「帰還者六名の確認自体は、もう閉じられますよ」
『受け入れ側七名の無事を数え終えてから閉じる。真壁さんが決めた手順でしょう』
自分で作った歯止めに、自分自身が引っかかる。制度化の手応えとしては、これがたぶん正しい姿なのだ。
俺は有線機を伏せ、残りのおにぎりを口へ運んだ。神代さんは向かいの席に座る。報告を急かすような素振りは見せない。皿が完全に空になるまで、何も言わずに待っていた。
「昨日、早めに帰らせた理由はこれですか」
「今日、座らせるため」
「計画的ですね」
「優秀な補給係に習った」
「誰のことでしょうね。ずいぶん面倒な人だ」
「うん」
そこだけは、あっさりと肯定された。
◇
午前七時三十分。救急員による健康再確認で『異常なし』の判定が出た。その結果は俺からではなく、救急員から直接宮前さんへと渡される。
午前七時三十二分。中央表の受付が終了し、記録が閉じられた。
午前七時三十六分。俺が中央の席へ戻ったときには、もうすべての処理が終わっていた。
西口通信線更新班。
入域六。
地上門通過六。
医療確認二。
症状なし確認四。
帰還原本照合六。
受け入れ側七、健康確認七。
受付終了、午前七時三十二分。
記入者の欄には、宮前さん、山根さん、奥村さん、救急当番、神代さんの署名がきれいに並んでいる。俺の署名はない。
「訂正はありますか」
宮前さんが訊いてくる。時刻、人数、受付番号、氏名の対応。札の位置も、預かり票の番号も、医療結果の返し先も、何一つ混ざらずに整理されている。
「ありません」
「では、この実施記録を九十日試行への追加案として添付します」
追加されたのは、新しい建物や設備ではない。人を交代させるための確かな条件だ。
西口詰所は、帰還の重なる時間帯の受付と巡回を、別の担当へ割り振る。今朝の六時から六時五十分を起点に、予定と現場の連絡に必要な枠を確保する。帰還原本の管理と、最初の人数確認だけを担う。
救急待機所は、症状の初期確認と医療内線を持つ。確定診断は外来の病院へ引き継ぐ。
物流休憩所は、保温の環境と座席を持つ。氏名や医療情報はいっさい持たない。
帰路亭の中央表は、誰が未確認かと、それぞれの受領時刻を追う。これで店主の真壁修司が不在であっても、指定された担当者へ引き継げるようになった。
時間外は、市の夜間当番が最初に連絡を受け、入口である西口と、その時点で開いている支援拠点とをつなぐ。中央の照合業務も市側で代行できるようにする。閉まっている帰路亭や休憩所の担当者を、眠らせたまま書類上の当番人数へ足してごまかすことはしない。
「西口を二十四時間有人に戻す案ではありません」
宮前さんが、承認前の書類の端をトントンと揃える。
「帰還予定がある時間帯や警報時には、入口の西口と支援三拠点から受け入れ機能を組み直します。警備会社、市、協力施設の責任時間は、それぞれ別々に記録します」
「帰路亭の待機時間は、七時から二十一時のままですか」
「そのままです。時間外の対応は別の当番表へ回します。閉店分の費用を帰還者へ請求しないという規則も変えません」
開いた一つの穴を、個人の店の営業時間で無理やり埋めない。その選択だけが、確かな文字となって紙の上に残った。
九十日間、試してみる価値は十分にある。
奥村さんが帰路亭へ足を運び、協力欄へ署名する前に条件を一つ足した。
「うちは温めるだけです。怪我を治したことにも、帰還を認定したことにもしないでください」
「明記します」
「あと、席を使った人には、お茶代だけ払ってもらいますよ」
「それは、帰還者へ直接請求するんですか」
「市へです。非常時まで、お客さんに財布を探させるような真似はしません」
市の経理担当である野々村さんの審査の手間は増えるだろう。ただし今度請求するのは、架空の空席の売上ではない。実際に提供したお茶と、使われた席の時間分だ。請求書に、帰還者の名前を添える必要はない。
午前十時過ぎ、野々村さんから費用上限の確認が返り、宮前さんが課長専決の承認番号を追記した。この変更の適用は、現在の九十日試行の残り期間に限られる。市、警備会社、そして協力施設が、それぞれの責任を持つ担当時間へ署名を入れた。
午前十時十八分。
通常より少し遅れて、帰路亭を開店する。
最初の客は、店の入口に掲げられた『西口を入口とする支援三拠点の案内図』をしげしげと眺めてから、店内を覗き込んだ。
「今朝、店主さんは西口にいたんですか?」
「いませんでしたよ」
俺は短く答える。
「それでも、六人とも無事に帰れました」
客は少し不思議そうな顔をして首をひねり、日替わり定食を頼んだ。
俺は厨房へ戻る。
中央表には、俺の手を離れたまま閉じられた、六人分の帰還記録が確かに残っている。
これまでの帰路亭は、店主がそこに『いる』から帰れる場所だった。だが今日からは、店主がいなくても、誰かが確実に帰れる仕組みになったのだ。




