訓練中に、本番の六人が帰ってきた
「予定より二十分早い」
午前六時十分。神代さんの声が、有線機の奥から落ちてきた。
『西口、帰還灯点灯。人数、まだ見えない』
六時三十分の予定まで、あと二十分ある。帰路亭の中央表では、まだ訓練の札が動いていた。仮札は三枚だけ。W―01は医療、W―02は物流休憩所、W―03は西口待機。残る三枚は机の端で、白い裏面を向けたまま止まっている。
「訓練札を裏返します」
動いていた三枚を白い面へ返した。紙が机を叩く、短く乾いた音だけが落ちる。
「ここから実帰還。時刻はすべて実測で」
『救急待機所、了解』
『物流休憩所、席六つ空いてます』
宮前さんと奥村さんの返答が、ほぼ同時に重なった。今朝は各拠点で手順の読み合わせを行い、仮札だけを動かしていた。俺は練習用紙を机の下へ滑らせる。本番の記録に、仮の受領を一枚たりとも混ぜるわけにはいかない。
『見えた。四人』
神代さんの声が、距離を詰めてくる。
『先頭、自力歩行。二人目、左腕を押さえてる。三人目、歩行可。四人目、工具そり。後ろ二人はまだいない』
「全員を待ってから受付しますか」
移動担当の山根さんが、共通回線へ声を乗せる。
「四人を扉の外に留め置きません。四人を受けます。六人の帰還枠は閉じません」
『了解。地上門、開きます』
西口と中央だけをつなぐ照合回線が、別系統で開く。全拠点へ流す回線には、個人名を乗せない。
『西口通信線更新班。班長、篠原和正。相馬裕介。野上千夏。村瀬隆。四名、地上門通過』
班長の篠原さんから、交換試験が早く終わったと短い報告が続いた。予定時刻まで待たせる理由はない。帰れる時に帰すための受付でもある。
中央表へ名前を書き込むのは、俺だけだ。各拠点へ回す札を、新しい受付番号へ差し替える。
W―0610―01、篠原。
02、相馬。
03、野上。
04、村瀬。
五番と六番は空欄のまま、赤い枠だけを残す。
共通回線が、番号で動く。
『02、左前腕に痛み。転倒なし。指先の感覚あり』
「救急待機所へ。移動担当は」
『山根、つきます』
「西口の受付は」
『神代さんへ引き継ぎます』
昨日までなら、一人の人間に二つの仕事を背負わせていた。今日は、一つを手渡してから次へ動く。
『01、03、自力歩行可。自覚症状なし。物流休憩所へ』
「04は」
『工具そりを手放さない』
神代さんの短い報告のあと、別の男の声が割り込んだ。
『これ、後ろ二人の装備です。俺だけ先には動かせません』
村瀬さんらしい。声は落ち着いている。こちらに伝わってくるのは、工具そりを置いて自分だけ避難する気はない、という一点だけだ。
「工具そりの重量と、後続二名の状態は」
『約三十キロ。最後に見た時は二人とも歩行可。第二折返しからこちらへ向かっています』
「四番は西口詰所内で待機。そりも同所へ。受付は継続」
『了解』
山根さんは相馬さんを救急員へ引き渡し、続いて篠原さんと野上さんを休憩所へ案内した。二人分の受領が、物流から上がる。
『01、03、六時十七分。座席二番と三番。温かいお茶、本人希望あり』
「中央、受領」
二人とも入口で救急員の初期確認を済ませており、飲水の制限はなかった。共通回線には、奥村さんが本人へ具合を尋ねる声も微かに入り込む。医学的な判断まで休憩所へ押しつけてはいない。
『救急待機所、02は六時十四分に受領済み。氏名は専用内線で照合済み』
「中央、受領」
四人の居場所は埋まった。
二人が、埋まらない。
有線機が一度、細く鳴った。
『西口、後続と通信途絶』
「最後の応答は」
『六時十六分。第二折返し通過、二名。歩行可』
「帰還灯は」
『点灯のまま』
帰還灯は、地上門の手前へ誰かが戻った合図にすぎない。迷宮内の残り人数までを保証するものではなかった。
神代さんなら、迎えに行ける。その言葉が喉元まで出かかり、俺は飲み込んだ。
彼女の方が先に、共通回線へ投げた。
『一番の方に確認。後ろ二人との間に、閉じる扉はある?』
物流側から、篠原さんが即座に応じる。
『ない。直線路と折返しが二つ。二人は予備ケーブルを持ってる』
『何分待てる』
『予定経路なら五分。七分で来なければ異常』
『今、二分』
六時十八分。最終応答から、ちょうど二分。
神代さんは走らなかった。
動ける人間が動かずに耐える二分は、机の上では酷く長い。俺は中央表の五番と六番へ、名前だけを書き入れた。
秋庭敬介。
高瀬文。
現在地は空欄。最終応答、六時十六分。歩行可、二。
書いたところで帰ってくるわけではない。だが、書かなければ待つ対象から先に抜け落ちる。
指先が、五番と六番の札の間で止まる。六年前なら、通信不能の知らせのあと、上から一方的な期限だけが降りてきた。だが今は、篠原さんが示した七分がある。現場を知る者が、自分たちの歩調から弾き出した待機時間だ。
その七分を信じて使う。早く安心したいからと、勝手に縮めて現場を揺らすわけにはいかない。
最終応答から三分三十秒。六時十九分三十秒を指した。
『見えた』
神代さんの声が、一段低く響く。
『二人。歩いてる。一人が右膝をかばってる』
地上門が開く。照合回線だけが、氏名を運んでくる。
『秋庭敬介、高瀬文。二名、地上門通過。入域六、通過六』
「症状」
『秋庭、なし。高瀬、右膝痛。転倒なし。外見からの腫れは不明』
「五番は入口での初期確認後に物流へ。六番は救急。移動担当、戻れますか」
『山根、休憩所から戻っています。あと一分』
「一分、西口内で待機。神代さんは受付を離れないでください」
『うん』
以前の俺なら、神代さんへ「迎えに行ってください」と頼んでいたかもしれない。だが今は、彼女が定位置に残ること自体が安全弁になる。神代さん自身の判断を、信じる。
午前六時二十三分。
05、物流休憩所受領。
午前六時二十四分。
06、救急待機所受領。
後続の二人も、工具そりを西口へ預けることに同意した。山根さんがそりを預かり、預かり票と保管場所を読み上げる。二人の同意と預かり票の照合を終えてから、村瀬さんも初期確認を受け、山根さんに伴われて休憩所へ移動した。六時二十七分、四番の受領が届く。
中央表の現在地欄が、六人分すべて埋まった。
地上門通過、六。
医療確認待ち、二。
休憩所待機、四。
未確認者、六。
まだ、六のままだ。
地上へ出たことと、帰還確認の完了は同義ではない。
『真壁さん』
神代さんの声だ。共通回線の向こうで、紙をめくる音が一度だけ擦れた。
『そっち、何人』
「中央、俺一人です」
『宮前さん、そっちに行ける?』
『氏名照合は終わりました。車で向かっています。あと二分で着きます』
「中央表は離れません」
『聞いてない』
「何をです」
『朝、食べた?』
机の端に、昨夜から置きっぱなしの栄養バーがある。封は開いていなかった。触れかけた指を、そっと引っ込める。
「あとで」
『その返事、禁止』
「誰が決めたんですか」
『今』
有線機の向こうで、山根さんが小さく咳払いした。業務回線で健康指導を受ける予定など、中央表のどこにも組み込まれていない。
午前六時二十九分。
宮前さんが帰路亭の扉を押し開けた。朝の光はもう厨房の床まで差し込んでいる。いつもなら仕込みに追われている時間だ。だが今日は包丁の代わりに、六人分の札がカウンターを占領していた。
「中央、交代します。真壁さんは受け入れ側の健康確認へ」
「俺は負傷していません」
「石川さんも昨日、まったく同じことを言いました」
反論の前例まで正確に残されているとは、記録というものは恐ろしい。
俺は中央表を宮前さんへ手渡した。六人の名前も、現在地も、未確認を示す印も、すべてそのままで。中央の担当欄が、俺の名から宮前さんの名へと書き換わる。六枚の札を見つめたまま、俺は静かに椅子を空けた。




