四人分の帰還と、二名分の予約
最初に清浄側へ出てきた稲村は、請求書ではなく毛布を受け取った。
「面体、外します」
救急員が声をかける。
稲村は黄色い脱装線の内側でうなずき、最後の固定具に指をかけた。外装は二重袋へ。面体は専用容器へ。露出した首と手首を拭き、測定器が靴底までを追う。数値は一度も跳ねなかった。
「基準内。青線へ」
午後五時三十四分。
清浄側移行、一。
青線を越えたところで、稲村は面体のない口で、大きく息を吸った。空気は治療ではない。ただ、残量を数えなくていい呼吸だった。毛布の端を肩にかけ、もう一度だけ吸う。救急員は次の名前を呼ばない。呼ばなくていい順番だった。
江藤が二人目に黄色い線へ入る。左手のしびれは、外装を脱ぐと少し戻った。救急員が握力と皮膚反応を取る。江藤は短い返事の代わりに、まだ感覚の薄い左手を差し出した。判断は医療側へ送られる。青線のこちらでは、握り返さない。
清浄側移行、二。
佐川が三人目。右袖の一度目の拭き取りで、測定器が基準を超えた。神代さんは先へ押し込まない。工程を一つ戻し、袖だけを同じ位置に置いた。
「時間は」
佐川が訊く。後ろの大庭を見ない声だった。
「あなたの面体は二十二分。大庭さんは三十一分。順番は崩さない」
強い人間が急がせると、数字は命令になる。神代さんは残量だけを渡し、次の工程は佐川に選ばせた。
「再処理、お願いします」
「了解」
二度目は基準内。青線を越えるとき、佐川は右袖を一度だけ見た。それ以上は言わない。
清浄側移行、三。
大庭が最後に黄色い線へ入る。症状の申告はない。外装、面体、測定。基準内のまま、班の一番後ろで青線を越えた。越えたあと、一度だけ若い二人の方を確認する。請求の話は、ここではしない。人数だけを閉じる。
午後五時四十八分。
赤区域、班員ゼロ。
清浄側移行、四。
救急外来へ四人を引き継ぐ。
入域四。
地上門通過四。
清浄側移行四。
医療確認は、まだゼロ。
帰還確認を早く閉じれば、物語はきれいになる。
記録は汚くなる。
だから待った。
◇
午後七時十二分。
救急外来から結果が届く。
大庭直哉。佐川香苗。稲村奏。江藤陸。
四名とも灰胞子の吸入所見なし。皮膚症状なし。江藤の左手は圧迫による一時的なしびれ。稲村は面体圧低下による過呼吸傾向があったが、安静後に回復。
医療確認、四。
受け入れ側は、神代さん、成瀬さん、生活衛生担当二名、救急員二名、それに俺。表面検査と健康確認、七名全員異常なし。
帰ってきた側だけでなく、迎えた側も数え終えた。
大庭から通話が入る。こちらは先に、東都開発の通知文を端末へ送っておいた。施設費を個別債務へ戻さない一文と、請求先が市である欄だけを枠で囲んである。
『若い二人に、請求は』
「ありません。今送った書面の四行目です」
『俺と佐川にも』
「同じ欄です」
『あとから、閉店分が来ることは』
「帰路亭からはありません。通知にも、今回の施設費を個別債務へ戻さないとあります」
大庭はしばらく黙っていた。書面を読んでいる間の沈黙だった。
『なら、帰ったって言っていいか』
「四名、帰還確認完了です」
今度の返事は、面体越しではなかった。
『ただいま』
「おかえりなさい」
◇
店を再開できたのは、翌日の午前十一時だった。
拭き取り検査。可搬排気機。厨房扉の前後。食材保全。排水使用なし。全部を照合し、生活衛生担当が営業再開へ署名した。
同時に、試行契約の最初の稼働票も確定する。
固定待機、一日。
確認済み閉店時間、十八時間十一分。
予約返金、六名分。
廃棄食材、二品。
乾式資材、四名分。
追加勤務、七名。
請求先、灰岳市。
帰還者氏名の欄はない。
東都開発から市へ送られた分担票にも、作業指示番号、第四層、外装四、受け入れ一回とだけ書かれている。誰が帰ったかは、支払いの紙の外に置かれた。
「監査用の予定表を、入口にも掲示してください」
野々村が言った。
「七時から二十一時。臨時休業は市の受け入れ案内にも反映します」
入口の掲示は、店の都合ではなく監査の都合になる。待機費を得る代わりに、開店と閉店を外から測られる店になった。
「嫌なら、九十日後に更新しない選択もあります」
野々村は書類の端を揃える。更新を勧めてはいない。
「更新しなくて済む仕組みを、九十日で作りたいです。一軒に頼らない方が、市も眠れます」
「契約した初日に、契約先を減らす話ですか」
「減らさないと、次の閉店時間もうちの入口で測られます」
野々村は否定しなかった。
無料よりは健全だ。
自由よりは窮屈だ。
制度というものは、だいたい両方を持ってくる。
◇
その金曜は、前日から入口へ午後八時半ラストオーダー、午後九時閉店と掲示していた。試行契約の待機時間は終え、飲食営業も片づけまで完了している。
午後九時二十分。
神代さんは片刃剣を帰路亭へ置いた。俺は仕事用端末を宮前さんへ渡す。
神代さんは、いつもの探索用ジャケットではなく、濃い緑の薄手の上着を着ていた。装備の変更なら重量と防護を確認する。仕事ではない服を同じ調子で測ると、今夜の目的が先に壊れる。
「何」
見ていた時間が長かったらしい。
「似合っています」
迂回路を作るより、短く言った。神代さんは袖口を一度見た。
「真壁さんも」
「いつものシャツです」
「皺、少ない」
「そこですか」
「うん」
褒め方は公平ではなかった。仕事の報告よりはずっと難しい言葉を、二人とも一つずつ出した。
「緊急連絡は切らないでください。ただし最初の十分であなた方へ回す必要はありません。今夜は私が一次受けします」
宮前さんは扉の前で、一次受けの分担だけを置いた。
「何か起きたら」
俺と神代さんの声が重なる。宮前さんは扉を指した。
「予約へ行ってください」
店主が自分の店から、夕食のために出される。
神代さんが選んだのは、駅裏の小さな洋食店だった。帰路亭から歩いて十二分。入口の前で、正面扉が一つ、厨房側の避難口が一つ見えた。
「帰還経路、二つ」
神代さんが先に言った。
「まだ何も」
「数えてた」
「職業病です」
「元、でしょ」
「最近は元を外されそうです」
店員へ予約名を告げる。
「二名でご予約の神代様ですね」
今度は延期ではない。帰路亭の外。仕事用の紙も、帰還札も、赤線もない席だった。
神代さんがメニューを開く。
「真壁さん、今日は先に食べて」
「なぜ」
「いつも最後だから」
「厨房にいる人間はそうなります」
「今日は厨房にいない」
反論する材料がなかった。俺は煮込みハンバーグを選び、神代さんは同じものに追加のパンを二つ頼んだ。
「二つ?」
「私は働いた」
「否定はしません」
「真壁さんも働いた」
「パンを二つ食べるほどでは」
「一つ、あげる」
神代さんはパン籠を、報告書より少しだけ雑に俺の側へ寄せた。受け取る時に指先が触れたが、どちらも数には入れなかった。
料理が来る。神代さんは、自分の皿より先に俺の皿を見た。
「温かいうちに」
帰ってきた人へ、俺が何度も言った言葉だった。今夜は俺が言われる側に座っている。
「いただきます」
二人で食べた。
電話は鳴らなかった。
食後の伝票には、作業指示番号も帰還者数もなかった。
予約、二名。
利用、二名。
それだけで、最後まで閉じられる夜だった。




