店を閉めた時間だけ、市が買う
契約書は、人間より先に赤線を越えた。
正確には、紙だけが側面通話器の脇にある透明ケースへ入った。
汚染側の大庭がケース越しに読み、清浄側の野々村が同じ画面を開く。
「九十日間の緊急受け入れ待機試行」
大庭の指が、その一行で一度止まった。
「帰還者本人への施設費、閉店補償、資材費の請求なし」
手袋の先が、同じ文字の上を戻る。
「その三項目については、ありません」
野々村が先に切った。
「医療費と装備損傷は別制度です。そこまで無料と誤認させる説明はできません」
「分かった。東都の求償は」
八代が清浄側の端末を回した。
「今回の帰路亭受け入れ費用を、大庭班の個別債務として通知しません。東都開発は、作業区分と稼働件数に応じた危険分担金を灰岳市へ支払います」
「あとで名前を出せと言わない?」
「分担金の監査資料に、四名の氏名と医療結果を求めません。会社が確認するのは作業指示番号、階層、装備区分、帰還時刻までです」
「規格違反が見つかったら」
「装備契約の調査は別に行います。ですが、帰路亭の閉店分をその請求へ足し戻しません」
大庭は、請求なしの一行へまた目を落とした。
三度目だった。
疑うのが遅いのではない。疑わず書いた契約が、いま四人を赤線の外へ立たせている。
通話器の向こうで、稲村の呼吸音が一段浅くなった。面体の表示は、紙を待ってはくれない。
「真壁さん」
野々村が俺のほうへ端末を向けた。
「待機可能時間は毎日七時から二十一時。臨時休業は四十八時間前までに市へ通知。資材点検は毎日。月一回の動線訓練と、期間中二回までの抜き打ち確認」
「発動時の閉店時間は」
「入口札を裏返し、市、生活衛生、医療の三者へ通知が到達した時刻から。終了は拭き取り検査と厨房換気確認後」
「売上推定は入れない」
「予約返金、廃棄食材、追加勤務は証憑の範囲。資材には単価上限。固定待機費は一日単位です」
「受け入れゼロの日も」
「支払います」
誰も帰ってこなかった日にも金が出る。何もしなかった金ではない。何か起きた時に、四人を借金の前へ立たせないための金だ。
入口の営業札は、七時と二十一時しか書いていない。勝手に長い昼休みは取れない。壁のカレンダーには、仕込みの日が鉛筆で残っている。四十八時間前に出せない休みは、もう店の都合では通せない。
月一の動線訓練の日は、煮込みの火より赤線が先になる。期間中二回までの抜き打ち確認では、帳簿ファイルを市が見る。
返すのは氏名でも病歴でもない。店が、その時間に待てることだ。
「受けます」
俺は署名した。
端末に、灰岳市迷宮安全課長の電子署名が入った。
午後五時十六分。
野々村が息を吐く。
「成立です」
「開始日は」
俺は確認した。
「本日。待機時間内の発動として、午後四時四十九分へ遡って適用します」
「遡及契約は問題になりませんか」
「緊急受け入れの仮発動記録があり、まだ費用請求は確定していません。課長専決の試行開始時刻として記録します」
「四人が受け入れを拒んでいた時間は」
「閉店時間には含まれます。店は実際に営業を止め、三者が受信しています」
人が赤線を越える前にも、店は止まっていた。拒否した時間を四人の責任にせず、請求条件を作れなかった側の待機時間として買う。
「もし、今日誰も来なかったら」
大庭が訊いた。
「固定待機費だけです」
「その金を、俺たちの元請が払う?」
「市へ払う分担金は、個別の帰還件数ではなく、危険区分のある作業指示全体で算定します」
「帰ってこない人がいても?」
「帰ってこない人を待てる状態にも、費用はかかります」
大庭は、そこで初めて契約書から三人へ視線を移した。
「八代さん」
「東都側の停止条件を解除します」
八代が社内通知を確定した。
大庭の端末に新しい文書が届く。今回の帰路亭受け入れ費用を、班員個人へ請求しない。
四人の目が、同じ一行で止まった。
「残り十五分」
神代さんが、稲村の面体だけを見て言った。
契約は間に合った。帰還は、まだ一人も終わっていない。
「これから一人ずつ確認します」
俺は通話器を取った。
「氏名。現在の症状。本人請求がないことの理解。脱装と医療引き継ぎへの同意。班長の一括回答にはしません」
大庭が口を開きかけて、閉じた。
「急いでくれ」
「急ぎます。省略はしません」
「稲村奏」
『息苦しさ、少し。めまいなし。首元の圧が落ちてます。請求なし、確認しました。脱装と医療、同意します』
「佐川香苗」
『症状なし。右袖に高濃度付着。条件確認。両方同意』
「江藤陸」
『左手にしびれ。たぶん握りすぎです。請求なし、確認しました。同意します』
「大庭直哉」
大庭は一度、三人を見た。
『症状なし。背面高濃度。条件確認。受け入れに同意する』
「四名、個別同意確認」
生活衛生担当が可搬排気機を起動する。赤区域が負圧へ落ちる。試験片が側面扉の内側へ吸われ、清浄側へ戻らない。
成瀬さんが入口側の予備フィルターを指で押さえた。
「乾式資材、四名分。外装袋、八。面体容器、四。清浄側毛布、四」
「医療受け入れ」
「救急員二名、青線待機。外来へ四床確保」
「処理先」
「市の仮保管庫。個別受付番号で搬出」
契約書が成立しても、物が足りなければ扉は開けられない。前回の経験で作った動線が、今回の残り時間を救っている。
神代さんと成瀬さんが、汚染側の装備を着けた。神代さんが先に入る理由は、四人を力で運ぶためではない。圧の落ちている稲村の接続部を見ながら、最短の脱装順を指示できるからだ。
「順番、稲村、江藤、佐川、大庭」
大庭が反射的に口を開いた。
「俺が最後でいい」
「もうそうなってる」
神代さんが言った。
「班長だからじゃない。面体の残りが一番長いから」
「分かった」
「分かった人から、足元見て」
赤線を越える時に転べば、契約書は助けてくれない。
側面扉を開ける。
稲村が一人目。神代さんの誘導で赤区域へ入る。まだ外装は脱がない。入口を閉じ、圧を確認し、黄色い脱装線まで進む。
江藤が二人目。左手をかばいながら入る。佐川が外から歩き方を見て、本人が歩けることだけを確かめた。
佐川が三人目。
大庭が四人目。
午後五時二十七分。
外に残る班員、ゼロ。
赤区域内、四。
清浄側移行、ゼロ。
扉を閉じた。
稲村の面体表示は、残り九分だった。
「第一工程、始めます」
神代さんの声が通る。
契約を成立させたことで、四人は助かったわけではない。助けるための入口から、逃げなくてよくなっただけだ。
俺は閉店時刻の欄へ、午後四時四十九分と記した。
市が買うのは、四人の命ではない。この店が、四人を通すために止まっていた時間だった。




