空席の売上は、損失に数えられない
営業停止札を裏返したのは、午後四時四十九分だった。
店を閉めると、最初に増える仕事は謝ることだった。
「本日の六名予約ですが、緊急受け入れのため営業を停止します」
電話の向こうで、短い沈黙があった。
『また誰か帰ってきたんですか』
「まだ帰還確認の途中です」
『なら、こっちはいいです。前受け、返さなくていいですよ』
「返します」
『でも』
「返さないと、損失ではなく売上になります」
『店主さん、いま気にするところ、そこです?』
そこだった。
客の厚意を制度の財源にはできない。
送金を戻し、返金記録の欄へ時刻を書いた。
午後四時五十三分。六名分。
次は厨房だ。
仕込み済みの鶏肉は密封して冷却すれば翌日に回せる。生野菜は、封鎖後に庫内温度を確認できない。炊飯中の米は、火を止めた時点から廃棄判定までの時間を残す。
煮込み鍋の蓋の縁で、神代さんが一度止まった。
「食べないでください」
「まだ言ってない」
「顔が発注書です」
「廃棄?」
「受け入れ開始前に小分けして急冷できれば残します」
「手伝う」
「清浄側から出ないでください。四人の監視を」
神代さんは側面扉へ戻った。
鍋より、外の四人を選んだ。
比較対象が鍋でいいのかは、本人へ聞かないことにした。
成瀬さんと生活衛生担当が、閉じた扉の内側で赤区域の準備を始める。乾式資材、外装袋、可搬排気機。扉はまだ閉じていても、開封と配置の人件は先に立つ。
使った時だけ金がかかる設備は、だいたい準備不足である。
成瀬さんが資材箱の封印番号を読み、生活衛生担当が開封時刻を書く。
「使わなかった袋は戻せますか」
「封印を切った箱は、全数点検です」
「全員分を一箱に入れた方が安い?」
「一人目の外装を入れた時点で、残りを清浄在庫として数えられません」
「では個包装へ変更する費用も」
「待機維持費です」
四人を通す前に、次の回の費用が一つ見つかった。
可搬排気機も、運転した電気代より、毎週の作動試験と交換用フィルターの方が高い。何も起きなかった日に消える金を数えなければ、非常設備は事件のたびに新品を祈る道具になる。
祈るだけなら、在庫表はいらない。
「実費として確認できるのは、予約返金、廃棄食材、追加勤務、使用資材です」
野々村が市の様式へ数字を入れた。
「営業停止による売上減は」
「前年同日、直近四週、予約実績から推定できます。ただし公費で推定利益を全額補償する制度はありません」
「六席の維持費は」
「通常営業中は客席として使えます」
「緊急時に最初に空けられるよう、折り畳み化してあります」
「今日、その六席に予約客はいましたか」
「席までは指定していません」
「では、空席六席の売上損失は確認できません」
誰も座らなかった席は、損失ゼロ。
誰も座らせなかったから、四人を受け入れられる。
会計は、役に立った空白を見つけるのが苦手らしい。
「市の様式では、空けておいた席より、埋めてから追い出した席の方が価値が高いんですね」
「そういう言い方はしていません」
「同じ数字になります」
野々村は眼鏡を外し、レンズを拭いた。
言い返す代わりに、視界を清潔にする人らしい。
「真壁さん。推定を認めすぎれば、普段から空いている店が、緊急時だけ満席だったと申告できます」
「分かっています」
「また、それですか」
「今日は分かっている人が多い」
「支払う人だけ決まっていません」
そこが問題だった。
台帳の支払者欄は、開いたまま空いている。本人請求はゼロと書いてある。
側面扉の外で、神代さんが片膝をついた。稲村の面体接続部を、触れずに横から見ている。
「稲村さん、首を右へ」
稲村がゆっくり向く。
「戻して。大庭さん、後ろの固定帯、二段目だけ締められる?」
「やる」
「一段。強くしすぎない」
大庭が手袋のまま固定帯を締めた。圧力表示が一つ戻る。
「残り四十三分」
神代さんが俺を見る。
遠方設備という選択肢は、とっくに消えている。
残っているのは、ここへ入るか、ここで面体が尽きるかだ。
「大庭さん」
俺は側面通話器を取った。
「今日、店が失うものを確定しています。四人へ割り振るためではありません」
『払う相手が決まってない』
「はい」
『なら同じだ』
「同じではありません。金額が不明な請求と、請求しない条件が未完成なのは別です」
『俺たちには、どっちも払うかもしれないだろ』
その通りだった。
約束は、支払元まで書いて初めて使える。
俺は台帳の右端に線を引き、数字を三列へ分けた。
一列目は発動費。止めた時間、返金、廃棄、追加勤務、開封した除染資材。今日この場で増えたものだけを置く。
二列目は平時維持費。折り畳みの六席、可搬排気機の点検票、乾式資材の個包装在庫、訓練済みの動線、三者への連絡表。発動しなくても残しておくものだ。
三列目は、個人情報がなければ確認できない項目。医療、外装、曝露経路、規格違反。
三列目だけ斜線を入れ、費用審査から外した。
その下に時刻欄を足す。
札を裏返した午後四時四十九分。
三者へ通知が届いた同時刻。
生活衛生担当が、赤区域の準備完了を時計に合わせた。
「午後五時三分二十秒。十四分二十秒です」
扉はまだ閉じたまま測れた時間だった。
十五分以内に店を止め、境界を作る、という数字になった。
「野々村さん。今日来たのが四人ではなく、一人でも、店を閉める手順は同じですか」
「厨房封鎖、境界設置、換気停止は同じです」
「十人なら」
「資材と医療要員は増えます。施設の発動自体は一回です」
「なら、一人いくらで払う必要はない」
野々村の手が止まった。
「店を止められる状態を維持する費用と、実際に止めた時間へ払う。人数で割らない。四人の名前も請求書へ載せない」
「待機して、何も起きなかった日は」
「六席が空いていただけに見えます」
「公費で何を買ったと説明しますか」
「空席ではありません」
俺は、今日動かした連絡表を置いた。
「十五分で店を止め、境界を作り、人を通せる能力です」
野々村が表を読む。眼鏡はかけ直したまま、うなずきもしない。
八代も腕時計から手を離した。
神代さんの声が入った。
「三十六分」
「さっきより減りが早いですね」
「接続部の漏れを入れて再計算した。表示より短く見る」
考える時間が、また一つ減った。
契約も支払者も、まだ空欄のままだ。
俺は六席の売上欄を消し、別の名前を書いた。
緊急受け入れ待機能力。
誰も座らなかった席に、初めて仕事が付いた。




