帰還者に、閉店分の請求書を渡さない
請求書を見て、帰還者が帰還を断った。
順番が悪い。
請求書は、無事に帰した後で人を困らせるものだ。赤線の外に立たせたまま使うものではない。
午後四時四十分。指定委託の申請締切まで、残り四日。
帰路亭の青側では、前回の緊急転用で出た設備費と休業損失を、市と東都開発が机の上で分け始めていた。側面扉は閉まったまま。扉の向こう、赤線の手前に、灰色の外装が四つ立っている。
会議で決めるはずだった費用が、会議の途中で本物の帰還者を止めた。
「入らない」
四人班の班長、大庭直哉は言った。
面体越しの声は平らだった。落ち着いているのではない。呼吸を増やさないように、言葉を削っている。
大庭の後ろに、佐川香苗、稲村奏、江藤陸。右肩から背中にかけて、灰が濃い。第四層の換気穴が崩れ、灰胞子の溜まりを浴びたらしい。
帰還札は四枚とも反応している。
入域四。地上門通過四。清浄側移行は、ゼロだった。
「遠方の除染設備まで九十二分」
神代さんが、四人の面体表示を見た。
「一番短い人、残り六十八分」
「誰です」
「稲村さん。接続部の圧も落ちてる」
稲村が小さく手を上げた。元気だと示したつもりだろう。
神代さんはうなずかなかった。
「手を上げる酸素、節約して」
国内最強の探索者が、いま止めているのは怪物ではなく挙手だった。強さの使いどころとしては地味だ。正しい。
扉の内側には、赤、黄、青の境界を作る資材がそろっている。生活衛生担当と救急員も、費用審査に来ていたため現地にいる。受け入れ条件はある。費用条件だけがなかった。
「その画面を見せてください」
俺は大庭へ言った。
大庭が端末を赤線の手前へ置く。灰色の粉が縁に付いたまま、画面だけが青側へ向く。俺は拡大表示を読んだ。
東都開発の調査委託に付随する緊急費用条項。
装備規格違反、経路逸脱、予定外帰還その他、受託者側の事情によって追加費用が発生した場合、除染、搬送、受け入れ施設の休業損失を実費で精算する。
規格違反は、まだ確定していない。経路逸脱もない。だが「その他」は便利だった。契約書の中で、事情が分からない時ほどよく働く。
「班の契約は四人で共同負担ですか」
「俺と佐川は固定報酬。二人は出来高です」
大庭は稲村と江藤を見なかった。視線は端末の端で止まっている。
「元請が立て替えた後、班の報酬から引く。足りなければ次の仕事で返す」
「上限は」
「ない」
「過去に、この条項で請求された人は」
大庭の呼吸が一度だけ深くなった。
「去年、同じ元請で一人。搬送車と装備回収、二日分の工程遅延。次の契約四本が返済に回った」
「その人は今も探索を?」
「してない」
契約を読んだだけで帰還を拒むには、理由が具体的すぎた。金を惜しんでいる声ではなかった。帰った後に仕事ごと失う例を、すでに見ている声だった。
稲村と江藤の出来高は今月からだ。最初の報酬を受け取る前に、上限のない債務だけが先に確定する可能性がある。
神代さんが、もう一度面体表示へ目を落とした。数字は、さっきより短い。
「その請求と、今回が同じになるとは決まっていません」
「違うとも決まってない」
面体の残り時間より、契約の空白の方が大庭には危険だった。
「受け入れ施設の休業損失は、まだ金額も決まっていません」
「だから入らない」
大庭の返事は早かった。
「俺が入れば、三人も入る。四人分の除染に、店一軒を閉めた金まで乗る。こいつらの次の仕事が、今日の帰還代になる」
「ここで待てば面体がもちません」
「遠方へ向かう」
「九十二分です」
「途中で救急へ渡す」
救急車は人を運べる。高濃度汚染の外装ごと、通常の車内へ入れることはできない。
大庭も知っていた。知らないふりをしているのではない。知った上で、若い二人へ借金を残すより自分の面体を賭けようとしている。
立派な判断に見える。帰還者を帰還の手前で止める契約がなければ、だが。
「大庭さん」
稲村が言った。
「私の分は私が払います」
「黙ってろ」
「出来高、三回分なら」
「上限がないと言っただろ」
江藤は口を開きかけて、閉じた。面体の内側で奥歯を噛み、佐川がその肩を押さえている。
四人の同意はそろっていない。班長の拒否だけで、残る三人の身体を待たせていいわけでもない。だからといって、神代さんに抱えて運ばせれば同意が消える。
「真壁さん」
費用審査担当の野々村が、清浄側の机から呼んだ。
「市の緊急受け入れなら、医療優先で開始できます。ただし費用負担を市へ確定する権限は、私にはありません」
「本人へ請求しないと書けますか」
「支払元が決まらない状態では書けません」
「救命と契約を分けるなら、後から本人へ戻さないでください」
野々村は言い返さなかった。正しくないからではない。市の金で誰かを助けるなら、誰へ、何の対価を払ったか説明が要る。推定売上を店の言い値で埋めれば、帰路亭だけを特別扱いすることになる。
八代が机の端で腕時計を直した。残りの時間を見ているのか、決裁の時間を見ているのか、青側からは分からない。
「東都開発が全額を負担する案なら、社内決裁を上げられます」
「条件は」
「四名の氏名、所属、装備規格、曝露経路、医療結果。規格違反の有無を確認し、責任区分を確定します」
大庭が笑った。笑いというより、予想どおりが当たった音だった。
「ほらな。入った瞬間、請求先が完成する」
八代の条件にも理由はある。会社が原因不明の費用を無制限に払えば、次の契約が成立しない。
正しい条件が二つ並び、その間で四人の面体だけが減っていく。
「あと六十二分」
神代さんが言った。確認ではない。更新だ。
「遠方は、もう間に合わない」
六十八分の時点で、九十二分の道はもう閉じていた。更新された六十二分は、ここで話し合える時間まで削った。
俺は営業中の札を裏返した。
準備中。
まだ赤線は開けない。側面扉も、閉じたままだ。
厨房の火を止め、予約台帳を出す。今日の食材、予約客、従業時間。店を閉めた時に実際に失うものを、推定ではなく数えられる形へする。
その一番上へ、先に一行書いた。
受け入れ費用。帰還者本人への請求、ゼロ。
支払者の欄は空白だった。
「空欄では契約になりません」
野々村が言う。
「分かっています」
「四人を待たせる時間もありません」
「それも分かっています」
分かっていることばかり増える。前回と同じだ。ただし今回は、扉を開ける手順ではなく、開けた後の請求書が人を止めている。
俺は空白の支払者欄を指で押さえた。
「四人の値段は計算しません」
数えるのは、店が何分止まり、何を捨て、何を空けて待てるかだ。
帰還者へ請求書を渡さないために。
まず、閉店一回分をばらすことにした。




