撤退は、敗北ではない
撤退には、二種類ある。
負けて逃げる撤退と、生きて帰るための撤退だ。
違いは、向いている方向ではない。帰路を用意したかどうかだ。
「第六層へ下りるって、それ、撤退なんですか」
葛西が簡易担架の上で聞いた。
「地上へ近づくことだけが撤退ではありません」
「でも、数字は増えてます」
「階数表示に心を折られないでください。地下鉄の乗り換えよりは単純です」
「地下鉄は魔物が出ません」
「朝の混雑を知らない発言ですね」
葛西が笑い、すぐ足の痛みに顔をしかめた。
会話ができる。意識は明瞭。だが熱は上がっている。
俺と小野寺が担架の前後を持ち、神代さんが先頭に立つ。背負子の荷物は四人へ分散した。
水は残り四・八リットル。経口補水液一・二リットル。おにぎり九個。出汁は一・五リットル。予備灯は連続四時間。
余裕はない。だが、残量が分かるうちは配分できる。
予定外の下層移動。
負傷者一名。
通信なし。
表計算なら、警告色で画面が見えなくなる条件である。
「排水路は本当に使えるんですか」
小野寺が後ろから聞く。
「六年前は使えませんでした」
「それは、安心材料ではないような」
「だから今回は使えるようにします」
第十四物資庫の背面から、旧管理用の縦坑へ入る。
縦坑には貨物用の昇降機があったが、電源は落ちている。横の非常階段は、鉄骨の半分が菌糸に覆われていた。
神代さんが一段ずつ荷重を確かめる。
「下まで続いてる」
「先に降りすぎないでください」
「見える範囲」
「あなたの見える範囲は広すぎる」
四人と担架が離れないよう、十メートルの補助索でつなぐ。神代さんが最初に降り、俺と小野寺で担架を支える。
階段を一段下りるたび、空気が重くなった。
魔素測定器の数値が上がる。
平均以下の適応値しかない俺には、先に身体が反応した。舌の奥に金属の味。こめかみの鈍痛。指先の冷え。
六年前と同じ兆候だ。
「真壁」
「問題ありません」
「聞く前に答えた」
「時間短縮です」
「嘘を一つつくたび、救助の成功率が下がる」
今朝、俺が言った言葉を、そのまま返された。
記憶力までSランクらしい。
「軽い魔素酔いです。第六層で十分休憩。それまでに悪化すれば、荷物をさらに分けます」
「了解」
俺が速度を指示する前に、神代さんは全員の歩調を一段落とした。
俺の状態まで救助計画へ入れられている。
心配されたことより、それを悪くないと思ったことの方が困った。
第5層へ着いたところで、縦坑の上から咆哮が落ちてきた。
腐菌獣ではない。
もっと大きい。湿った肺を無理に震わせるような音。
「来る」
神代さんが剣を抜く。
上の暗闇から、白い菌糸の塊が鉄骨を伝って降りてきた。熊ほどの胴体。前脚は異様に長く、頭部に目がない。
深層徘徊種、盲菌猿。
六年前には第6層で確認された魔物だ。構造変動で上がってきたらしい。
「担架を壁際へ。小野寺さん、葛西さんの頭を守って」
俺は発光棒を三本折り、階段の反対側へ投げた。
盲菌猿の頭部が、光ではなく音へ向く。
神代さんが踏み込んだ。
片刃剣が前脚を受け流す。鉄骨がひしゃげた。神代さんの身体が一段下へ押される。
「雷なら一撃」
「禁止です」
「この足場で長引く方が危ない」
正しい。
だが、正しい選択肢が一つしかない状況を作った時点で、兵站は負けている。
俺は階段脇の配管を見る。
旧消火設備。圧力計はゼロだが、手動弁の先は貯水槽へつながっている。
「神代さん、十秒だけ右へ引きつけて」
「何をする」
「足場を洗います」
手動弁へ携帯工具をかける。錆びついて動かない。
小野寺が担架の後ろから身を乗り出した。
「これを」
測量用の延長棒を投げてくる。
弁の取っ手へ通し、二人で押した。
金属が悲鳴を上げる。
一回転。
配管の奥で空気が弾け、濁った水が天井のノズルから噴き出した。
盲菌猿の長い前脚が滑る。
「いま!」
神代さんの刃が足場の菌糸を切った。
鉄骨に絡んでいた白い束が外れ、盲菌猿は自重を支えられなくなる。長い爪が空をかき、そのまま縦坑の底へ落ちていった。
遠くで、重いものが水へ沈む音がした。
小野寺が差し出した延長棒が、俺の足元を転がっている。
救助されるだけだったはずの人間が、全員の帰路を一段延ばした。
「戦わずに落とした」
神代さんが息を整えながら言う。
「俺は戦闘禁止なので」
「規則の守り方が攻撃的」
「お役所にも褒めていただきたいですね」
休憩を入れる。
神代さんの傷は開いていない。ただし脈が速い。葛西の熱は上昇。小野寺の手の傷は再出血。俺の測定器は魔素曝露の警告を黄色で示している。
全員が少しずつ悪くなっている。
だから止まる。
急いでいるときほど、休憩は時間を使う行為ではない。使える時間を増やす行為だ。
おにぎりを一人半分ずつ。出汁を一口。水分を計量。
神代さんが梅おにぎりを見つめる。
「塩がよかった」
「選べる状況ではありません」
「Sランクなのに」
「食料配分では階級を採用していません」
「民主的」
「兵站は独裁です」
午後五時四十分、第6層。
階段を出ると、かつての監査区画があった。
壁面の半分は崩れている。残った案内板に『監査室』『排水制御』『第六次遠征本部』の文字。
胸の奥が縮んだ。
ここで十一人分の行動予定を組んだ。
この先の会議室で、榊原に撤退時刻を二時間早めるよう求めた。
却下された。
それでも出発を止められなかった。
「真壁さん」
小野寺の声がする。
「排水路は」
「監査室の奥です」
過去を説明している時間はない。
監査室の扉は、非常電源で生きていた。認証盤へ緊急救助協力証をかざすが、権限不足と表示される。
次に、左手首の識別票を外した。
六年前の社員番号を入力する。
認証成功。
「退職者の権限が残ってる」
神代さんが言う。
「組織の情報管理としては失格です。今日は助かりました」
室内には、古い監査端末が一台残っていた。
小野寺が起動すると、物資庫で見つけた索引と同期する。画面に二つの警告が出た。
現在時刻、北側隔壁閉鎖命令。
実行者、榊原隆臣。
六年前、第六次遠征の計画変更承認。
実行者、榊原隆臣。
「消されてない」
「本社の記録ではなく、設備監査用の独立端末です。改変対象から漏れた」
小野寺が個人端末へ複製する。宮前さんの指示どおり、証拠のために進路は変えていない。排水制御を開くのに、この端末が必要だった。
偶然ではない。
帰路の上に、榊原が消し損ねた記録が残っていただけだ。
「転送は」
「通信がありません。地上へ持ち帰るしかないです」
小野寺が防水ケースへ端末を収める。
そのとき、監査室の奥で警報が鳴った。
排水路水位、上昇。
地上側排水門、遠隔閉鎖処理中。
「榊原が排水路にも気づいた」
「閉じる前に開けます」
制御盤を操作する。
非常電源の出力不足。
排水ポンプを起動できない。
画面には、必要電力と残量の差が表示されていた。
足りない。
「私が流す」
神代さんが剣を抜いた。
「雷撃は禁止です」
「非常電源へ一度だけ。魔物へ撃つより負荷は低い」
「低体温と低血糖が再発します」
「門が閉じたら全員出られない」
他の方法を探す。
予備電池。端末。中継器。全部合わせても足りない。
残り時間は、画面上で九十秒を切った。
正しい選択肢が一つしかない。
今度は、それを選ぶための補給がある。
「一回だけです。五秒以内。終わったら、これを全部飲む」
糖分ゼリー二本と保温シートを取り出す。
「命令?」
「補給条件です」
「了解」
神代さんが制御端子へ剣を差し込む。
白い閃光が走った。
雷鳴が狭い監査室を揺らす。
一秒。
二秒。
三秒。
「切って!」
神代さんが剣を引く。
排水ポンプが低く唸り、地上側の門が開放へ転じた。
同時に、神代さんの身体が傾く。
受け止める。
指先が冷たい。呼吸はあるが、瞳の焦点が遅い。
「座って。ゼリーを」
「平気」
「その台詞は禁止事項へ追加します」
ゼリーを飲ませ、保温シートで包む。
神代さんは震える手で剣を握ろうとした。
「まだ動ける」
「動けることと、動くべきことは別です」
「榊原を止めないと。また閉じられる」
「門は手動固定へ切り替えました。いま追う相手は地上です」
「私が行けば早い」
「一人で?」
神代さんが黙る。
「なぜ、そこまで一人で行こうとするんです」
時間がない。
それでも聞く必要があった。
このままなら、彼女は別の場所で同じことをする。
「昔、兄と迷宮に閉じ込められた」
神代さんは保温シートの端を握った。
「救助隊が来ると言われて、待った。兄は、待っている間に死んだ」
午前七時四十七分。壊れかけた受信機を前に、白くなるほど拳を握っていた理由が、ようやくつながった。
四時間も待てない、と彼女は言った。
「何年前です」
「十三年前。私は十四だった」
「それで、待たないために強くなった」
「私が先に着けば、誰も待たなくていい」
短い言葉だった。
十三年分を説明するには、短すぎる言葉だった。
「神代さん。あなたの兄を亡くしたのは、撤退したからではありません」
「分かってる」
「分かっていません。待つしかない計画しかなかった。それが失敗した。だから俺たちは、待たせない帰路を作る」
「でも、いまも誰かに任せたら」
「俺がいます」
口から出てから、その重さに気づいた。
六年前、言えなかった言葉だ。
俺の計画に従えば帰せる、と最後まで言い切れなかった。
「戦えません。あなたより遅い。魔素にも弱い。立派な経歴もありません」
「褒めるところがない」
「いまは黙って聞いてください」
神代さんが少しだけ笑う。
「それでも、帰路は作れます。だから、あなたの強さを一人で使わないでください。帰るところまで、俺の指示に従って」
排水ポンプの音が続く。
葛西の荒い呼吸。小野寺が装備を確かめる音。
神代さんは目を伏せた。
やがて、剣から手を離す。
「撤退命令を」
「全員、旧排水路から地上へ撤退。神代凛花は先頭ではなく、俺の後ろ。戦闘は防御のみ。異論は」
「ない」
それは彼女が初めて、自分から預けた帰路だった。
午後七時十分。
旧排水路へ入る。
直径二メートルほどの円形通路を、冷たい水が膝下まで流れている。俺が先頭で深さを測り、神代さん、小野寺、担架の順に進む。葛西の身体が濡れないよう、担架を高く保つ。
排水門までは一・四キロ。
俺の頭痛は強くなっていた。足元が一度だけ遠く感じる。魔素測定器は赤に近い橙色。
「真壁、交代」
「神代さんは」
「体温、三十六・〇。脈、百一。歩ける。雷は使わない」
こちらが聞く前に報告された。
「五百メートルだけお願いします」
「一・四キロ」
「交代制です」
「兵站は独裁では」
「現場の報告で計画を変えない独裁者は、ただの無能です」
神代さんが俺の前へ出る。
速度は上げない。
何度も後ろを確認する。
一人で先へ行くためではなく、全員がついてきているかを見るために。
地上側の排水門が見えたのは、午後八時四十三分だった。
門の隙間から、夜の空気が入っている。
先に小野寺が抜け、担架を受け取る。葛西、荷物、神代さん。
最後に俺が外へ出た。
山の斜面を下りた先に、市の救助車両の灯りが見える。
通信が復帰し、イヤホンから宮前さんの声が弾けた。
『位置を確認! 全員ですか!』
「四名。要救助者二名、同行者一名、店主一名。全員、生存です」
言い終えた途端、膝から力が抜けた。
地面へ座り込む。
「真壁」
神代さんが腕をつかんだ。
「魔素酔いです。少し休めば」
「その台詞、禁止」
「覚えなくていいところまで」
救急隊が走ってくる。
担架が増えた。
計画上は不本意だが、全員分が地上にあるなら問題はない。
正面ゲート側から、複数の車両音と、人のざわめきが聞こえた。
市の再開発説明会へ呼ばれた報道陣が集まっているらしい。
大型スクリーンに、榊原の姿が映っていた。
『本日、閉鎖区域への不法侵入が確認されました。元関係者が過去の知識を利用し、探索者を扇動した可能性があります』
画面の中で、榊原が残念そうに眉を下げる。
『主導したのは、六年前の事故で補給計画上の責任を問われた真壁修司氏です』
報道陣のカメラが、一斉にこちらを向いた。
神代さんが剣へ手をかける。
俺はその手首をつかんだ。
「撤退命令は、まだ解除していません」
「あれを放置するの」
「いいえ」
小野寺が、防水ケースを胸へ抱えている。
中には二つの時代の記録がある。
六年前に消された命令と、今日、俺たちを閉じ込めた命令。
「戦場を変えます」
俺はカメラの光を見返した。
「次は、記録の上で帰してもらいます」




