戦えない店主は、帰り道をつくる
迷宮救助に、炊きたての米を持ち込む人間は少ない。
理由は単純である。
重い。傷む。匂いが出る。
それでも俺は、店の炊飯器を空にした。
「おにぎり、十二」
宮前さんが読み上げる。
「塩六、鶏そぼろ四、梅二です」
「そこまで記録に必要ですか」
「遭難者へ何を食べさせたか分からない救助報告は、食物アレルギーの欄で止まります」
「正論が細かい」
「兵站は細かい正論を袋に詰める仕事です」
握った米を一つずつ冷まし、ワックスペーパーで包む。
意識のある二人へ渡す水は、二リットルを三本。急に飲ませないための小カップと経口補水液。体温が落ちていれば鶏出汁と使い捨てカイロ。消耗には糖分ゼリーと塩飴。出血には圧迫包帯、歩けないなら簡易固定具。
こちらが帰るための予備灯、化学発光棒、布テープも詰める。
品目は同じでも、誰がどの状態で使うかを決めなければ、荷物はただ重いだけだ。
食堂の折り畳みテーブルは、開店初日から補給所になった。
消防の迷宮救助隊は、北側保守坑道の入口へ先に向かっている。
六年前の崩落以来、灰岳迷宮へ入った経験のある現役隊員はいない。内部の安全確認が済むまで大部隊は動かせない。先行は最小人数になった。
俺と神代さん。
消防隊員二名が第2層の通信中継点まで同行し、そこから先は地上支援へ戻る。
行政の緊急救助協力証が、俺の胸元にぶら下がっていた。
有効期限は本日午後八時。
肩書というものは、六年失っても紙一枚で今日一日だけ戻ってくるらしい。
「真壁さん」
宮前さんが、署名済みの指示書を差し出した。
「救助が最優先です。証拠を見つけても、回収のために進路を変えない。午後五時までに対象者へ到達できなければ撤退。午後七時までに全員が中継点へ戻らなければ、消防が第二隊を入れます」
「了解しました」
「神代さんも」
「聞いてる」
「返事をしてください」
「了解」
神代さんは白い軽装甲の損傷部分を応急材で塞ぎ、片刃剣を腰へ下げていた。医療担当の許可条件は、雷撃禁止、負荷警告が出た時点で撤退、傷が開けば即時中止。
守れるなら、そもそも店先で倒れていない条件ばかりである。
「復元できた音声は、これで最後です」
宮前さんが、神代さんの破損端末を再生した。
雑音の向こうから、若い男の声がする。
『小野寺さん。俺、初仕事で遭難したら査定どうなりますか』
『生還すれば反省文。しなければ査定対象外だ』
『じゃあ反省文を書きます。始末書は嫌です』
『選べる立場だと思うな。帰ったら両方だ』
そこで録音は切れていた。
冗談を言ったのが葛西。答えたのが小野寺。
二名、という救助人数に声がついた。
「反省文だけで済ませます」
俺が言うと、神代さんは端末から目を離さずにうなずいた。
「二人とも帰して、本人に書かせる」
「荷物を」
神代さんが俺の背負子へ手を伸ばした。
「持ちません」
「重そう」
「二十二・四キロです」
「私なら軽い」
「あなたが倒れたとき、荷物まで回収する側の気持ちを考えてください」
「信用がない」
「実績があります」
神代さんは不満そうに手を引いた。
代わりに、テーブルの端へ置かれた塩おにぎりを一つ取る。
「それは行動食です」
「もう行動する」
「理屈の組み立てだけはSランクですね」
午後零時二十分。
帰路亭の裏へ市の車両を置き、北側の山道を上った。
保守坑道の入口は、錆びた管理棟のさらに奥にあった。埋め戻されたはずの斜面へ、新しい鋼鉄製の扉がついている。周囲には大型車の轍。泥の表面だけを均した跡があり、隠す気はあるが、丁寧に隠す予算はなかったらしい。
「東都開発の管理錠です」
宮前さんが端末をかざす。
市の非常解除命令を受け、赤いランプが緑へ変わった。
扉の向こうから、湿った冷気が流れてくる。
土と錆と、甘く腐った菌類の匂い。
六年ぶりだった。
左手首の古い識別票が、袖の下で皮膚へ触れる。
十一人分の名前を読んだときも、同じ匂いがしていた。
「真壁」
神代さんの声で、呼吸を戻した。
「顔色が悪い」
「入る前から負傷者に心配されるのは、計画上よろしくないですね」
「帰る?」
試す言い方ではなかった。
本当に選択肢として聞いている。
俺は少しだけ驚いた。
「二人を連れてからにします」
「了解」
坑道内の照明は、新しかった。
五十メートルごとに東都開発の仮設灯。床には電源ケーブルと、有線中継器。違法調査を一晩だけ行う設備ではない。
「ずいぶん立派な軽い現地確認ですね」
「私たちが入る前からあった」
「準備期間の長い突発調査だ」
第1層へ抜ける手前で、消防隊員が最後の中継器を固定した。
『地上、通信確認。真壁さん、神代さん、音声良好です』
宮前さんの声がイヤホンへ入る。
「こちら先行班。午後零時五十八分、第1層へ入ります」
『位置記録を開始。十分ごとに定時連絡。次の連絡がなければ五分で呼びかけ、さらに五分で第二隊を準備します』
「了解」
迷宮へ踏み込む。
地上のコンクリートは、数歩で黒い岩へ変わった。壁を白い菌糸が這い、天井から透明な水滴が落ちている。遠くで、何かが石をかじる音がした。
神代さんが前へ出る。
「歩幅、七割に落として」
「遅い」
「帰りは負傷者を支えます。行きだけ速い人間は、往復の計算から外します」
速度が下がる。
素直に従う神代凛花という珍しい現象を、地上の通信担当にも記録しておいてほしい。
第2層までは、東都開発の中継器が残っていた。
そこから先は、ケーブルが切られている。
切断面は鋭い。魔物に噛まれた跡ではない。
「神代さんが切った?」
「違う。戻るときには切れてた」
「誰かが地上から情報を消した」
『現物は撮影してください。回収は不要です』
宮前さんの声が飛んでくる。
「了解」
写真を撮り、時刻と位置を読み上げる。
証拠は拾わない。
救助に不要な百グラムは、帰り道では負傷者の百グラムになる。
第3層へ下りる斜路で、最初の魔物が現れた。
犬ほどの大きさの灰色の塊が三体。菌糸をまとった四肢で、壁から剥がれるように落ちてくる。
腐菌獣。
単体ならDランク相当。噛まれれば傷口へ菌糸が入り、処置に時間を取られる。
神代さんが剣を抜いた。
「雷撃は禁止です」
「使わない」
一歩。
白い刃が横へ走る。
一体目の前脚が落ち、返す刃で二体目の胴が壁へ叩きつけられた。三体目が跳ぶ前に、鞘の先が顎を打ち上げる。
三秒。
雷も光もない。
ニュース映像より地味で、ニュース映像より怖かった。
「終わった」
「呼吸数が上がっています」
「戦ったから」
「休憩します」
「三秒しか戦ってない」
「三秒で終わらせたことと、身体が消耗しないことは別です」
水を二口。糖分ゼリーを半分。
神代さんは渋い顔で飲み込んだ。
「真壁と入ると、食べてばかり」
「それで生きて帰れるなら、店主として宣伝に使います」
「迷宮食べ歩き」
「客層が限定的すぎる」
午後二時十分、第4層。
古い主通路は、途中で壁になっていた。
昨日までそこにあったような、濡れた黒い岩の壁。迷宮の構造変動だ。神代さんの腕部端末に残る移動記録も、ここから乱れている。
神代さんは右の通路へ半歩出て、止まった。
前なら、そのまま見えなくなるまで走っていただろう。
「私は右へ行った。真壁、いまはどっち」
「右は戻る方向です」
「道が動く前は違った」
「責めていません。いまの地図を作ります」
俺は紙地図へ新しい壁を書き込み、歩数と傾斜を確認した。
旧第十四物資庫は、主通路から東へ六百メートル。構造が動いても、物資庫そのものは岩盤へ固定した人工区画だ。非常信号が届いた以上、完全には潰れていない。
問題は、そこへ続く道が消えたこと。
耳を澄ます。
右の通路から水音。左からは風。
六年前、第十四物資庫の背面には換気用の細い保守路があった。人員移動には使わず、物資庫の湿度を逃がすためのものだ。
「左です」
「根拠は」
「風が鶏出汁の匂いを運んでいます」
神代さんが鼻を動かした。
「分からない」
「さっき、保温ボトルを少し開けました。匂いが左へ吸われた。換気路につながっています」
「料理を道具にした」
「食べ物は食べるだけが仕事ではありません」
「店主の発言として危ない」
左の割れ目へ入り、肩幅ほどの保守路を進む。
俺の背負子が岩へ何度も当たった。神代さんなら楽に抜けられるが、荷物を先に通せば時間を失う。そこで水を一本、神代さんへ渡した。
「持たせないんじゃなかった?」
「状態が改善したので計画を更新しました」
「信用された」
「一・九キロ分だけです」
「細かい」
保守路の先に、赤い鉄扉が見えた。
塗装は剥がれ、中央の封印具だけが切られている。
H6―14。
扉の前には、手回し発電機が転がっていた。
ハンドルに新しい血がついている。
「小野寺さん、葛西さん!」
神代さんが扉を叩く。
中から何かが倒れる音。
「神代、さん?」
かすれた男の声だった。
扉を開ける。
非常灯の青い光の下に、二人いた。
壁へ背を預けた細身の男が小野寺。発電機を回した手のひらが裂けている。床へ横たわる若い男が葛西。左足首は応急固定されているが、腫れが強い。
二人とも生きていた。
まず呼吸。意識。大出血。
小野寺は脱水と魔素曝露。葛西は足首の負傷に加え、発熱。致命的な兆候はない。
「食べ物と水を持ってきました。急いで飲まないでください」
俺は背負子を下ろし、経口補水液を小さなカップへ分けた。
小野寺が震える手で受け取る。
「あなたが、真壁さん?」
「そうです」
「封印の、名前が……物資庫の記録に」
「昔の話は地上で。最後に飲んだのは」
「三時間、くらい前。予備水を葛西に」
「正しい判断です。いまは自分の分を飲んでください」
葛西へは意識と吐き気を確認し、少量ずつ補水させる。熱はあるが受け答えはできる。
「すみません。初仕事で……」
「謝る相手を間違えています」
「でも、俺が足を」
「怪我をした人間の仕事は、治療されることです。人事評価は地上で勝手に下げてもらってください」
葛西が泣きそうな顔で笑った。
神代さんは、二人の前へ膝をついた。
「置いていって、ごめん」
「助けを呼びに行ったんでしょう」
小野寺が答える。
「戻った。それで十分です」
神代さんは何か言おうとして、やめた。
代わりに、俺が渡した水のボトルを強く握った。
補給後、葛西の足首を固定し直し、簡易担架を組む。小野寺には自力歩行できる範囲で荷物を分担してもらう。
「これを」
小野寺が胸元から小型端末を出した。
「榊原さんの指示、録音してあります。中継器が切れたあと、個人端末へ直接入った通話です」
再生する。
『第六層反応点まで進んでください。サンプルが取れれば、正式認可は通ります』
『許可範囲は第四層まででは』
『現場判断で処理します。記録はこちらで整えます』
聞き覚えのある言葉だった。
記録はこちらで整える。
六年前も、榊原はそう言った。
「もう一つあります」
小野寺が物資庫の奥を指す。
「古い在庫端末に、監査記録の索引が残っていました。六年前の遠征記録も。でも本体は第六層の監査室です。ここからは読めません」
「回収には行きません」
俺は即答した。
「救助優先です。音声は複製し、端末を防水袋へ。来た道を戻ります」
神代さんが俺を見る。
反対するかと思った。
だが、彼女は一度うなずいただけだった。
「真壁の指示に従う」
その言葉を聞いた直後、物資庫の照明が消えた。
暗闇の中で、遠くから鋼鉄のぶつかる音が連続して響く。
一枚。
二枚。
三枚。
保守坑道の防火隔壁が閉じる音だ。
イヤホンへ激しい雑音が走った。
『真壁さん、応答してくだ――』
宮前さんの声が切れる。
代わりに、天井の古い館内放送が起動した。
『内部構造の異常を検知しました。安全確保のため、北側保守坑道を封鎖します』
自動音声ではない。
榊原の声だった。
『許可なき侵入者は、その場で救助を待ってください』
救助を待て。
通信を切り、帰路を閉じた人間がそう告げる。
六年前と同じだった。
ただし、今回は違う。
俺の前には、生きている四人分の呼吸がある。
そして俺は、封鎖される前から帰り道を一つしか用意しないほど、榊原を信用していなかった。
「計画を変更します」
予備灯を点け、紙地図を開く。
「正面には戻りません。第六層へ下りて、旧排水路から地上へ出ます」
神代さんが、暗闇の先を見る。
「下へ行くの」
「撤退するために」
俺は赤い線で、新しい退路を引いた。




