最強探索者に必要なのは、説教と二人前の朝食
救助計画を作るとき、最初に数えるべきものは勇気ではない。
人間と、水と、時間だ。
「もう動ける」
残念ながら、今回は言い出した人間から数える必要があった。
神代さんは長椅子から立ち上がろうとして、三秒後には同じ場所へ座り直した。本人の名誉のために言えば、座ったのではない。膝が折れて着地しただけだ。
「動ける人は、家具につかまって呼吸を整えません」
「これは準備運動」
「準備運動で脈拍を百二十まで上げるのは効率が良すぎます」
俺はホワイトボードへ線を引いた。
残留者、二名。
最終確認、約二時間半前。
推定地点、旧第十四物資庫。
負傷、一名。水と食料、ほぼなし。
こちらの利用可能戦力は、戦えない食堂店主が一人と、立つことを準備運動と呼び張る負傷者が一人。
組織図なら、作成した人間が始末書を書く配置である。
「名前は」
「小野寺航。測量士。もう一人は葛西優斗。運搬担当」
「負傷したのは」
「葛西。左足首。折れてはいないと思う」
「意識は」
「二人ともあった。小野寺が残って、私が出口を探した」
神代さんは粥の椀へ手を伸ばした。
俺はその手より先に椀を取った。
「質問に答えた」
「一杯目を消化できたので、二杯目を出します。これは没収ではなく増量です」
「最初からそう言って」
「最強探索者が朝食を人質に取られた顔をしたので、少し見ていたくなりました」
厨房へ戻り、粥にほぐした鶏肉を加える。今度は茶碗の七分目。別皿に、塩を薄く振った卵焼きと、すりおろした林檎を少量つけた。
糖質、たんぱく質、水分、塩分。
神代さんの雷撃は、魔素だけで動く都合のいい奇跡ではない。
腕部端末の生体ログが読める範囲でも、発動のたびに体温と血糖が落ちている。昨夜の記録は途中で切れていたが、最後の画面は異常低下の警告で赤く埋まっていた。
会社が渡した支給食は、空のゼリー袋が一本。
ただし、神代さんの私物ポーチには、別の糖質パックの空袋があった。個人購入品。会社支給より容量が多い。
「これは」
「葛西に残した。全部食べさせて、空袋は持ってきた」
「自分の分は」
「あれが最後」
無謀だった、と片づけるのは簡単だった。
実際には、葛西を生かすために自分の余裕を渡した。そのあとで、自分一人なら保つと計算した。
問題は、計算した本人が自分の消耗だけを計算に入れていなかったことだ。いま長椅子から立てない程度には、見積もりが甘い。
「これだけですか」
「軽い現地確認だと聞いていた」
「軽い現地確認にSランクと測量士と運搬担当を入れて、第五層より下まで歩かせた」
「途中で目的が変わった」
「現場で目的が増える会社は、だいたい補給を増やしません」
俺は空袋の裏を見た。
製造番号の下に、東都開発の資材ラベルが貼られている。
訓練用・短時間行動食。
想定行動時間、四時間。
神代さんたちが入ったのは昨夜の九時過ぎ。すでに十時間が経っている。
「行動時間は延長されたんですか」
「深層晶の反応が出た。サンプルだけ取れと言われた」
「誰に」
神代さんは黙った。
黙秘は自由だ。
ただし、救助計画には反映される。
俺がホワイトボードの『不明』を丸で囲むと、神代さんの眉がわずかに動いた。
「榊原隆臣」
油性ペンの先が止まった。
六年前、同じ名前を日報の承認欄で毎日見た。
予定どおり。
問題なし。
続行を承認する。
現場から上げた警告より短い言葉で、人間の帰路を消した男の名前だ。
「東都開発の灰岳再開発準備室長。今回の責任者」
「そうですか」
「知ってるの」
「昔の上司です」
それだけ答えた。
神代さんは俺の顔を見たが、追及しなかった。短い沈黙のあと、粥を一口食べる。
「……これ、おいしい」
「話題を変える技術が力業ですね」
「本当においしい」
「二回言えば何でも許される制度はありません」
「三回なら」
「食べ終わってから交渉してください」
午前七時十二分。
俺は迷宮事故専用の通報番号へ電話した。
閉鎖迷宮内に要救助者二名。侵入口は北側保守坑道。通報者の店内に、脱出した探索者一名。第五層以下の付着物と、企業支給装備あり。
電話口の担当は、三度聞き返した。
閉鎖中の灰岳迷宮で間違いないか。
Sランクの神代凛花で間違いないか。
通報者は、あの真壁修司で間違いないか。
最後だけ、業務上の確認ではなかった気がする。
「全部、間違いありません」
そう答えると、先方は消防と灰岳市迷宮安全課を向かわせると言った。
次に、店の入口へ『臨時休業』の札を出した。
開店から一時間十二分。
売上、ゼロ円。
救護者、一名。
行方不明者、二名。
飲食業の初日として採点するなら、審査員へ事情説明が必要な数字だった。
店先へ救急車が着いたのは、午前七時二十八分。
救急隊員に引き渡すと、神代さんは素直に診察を受けた。素直だったのは三分だけである。
「病院には行かない」
「行ってください」
「二人が残ってる」
「あなたが三人目の要救助者になると、必要な担架が増えます」
「歩ける」
「さっき見ました」
救急隊員が笑いをこらえた顔で、傷の深さと循環状態を説明した。裂傷は筋層へ届いていない。止血もできている。ただし低体温と消耗が強く、少なくとも点滴と経過観察が必要。
神代さんは不満そうだったが、輸液針を抜こうとはしなかった。
そこへ、パンツスーツの女性が早足で入ってきた。
肩までの茶髪。片手にタブレット、もう片方には紙の資料。タブレットの背面にまで付箋が並んでいる。
「灰岳市迷宮安全課の宮前です。謝罪と名刺交換は後回しにします。現物を見せてください」
名乗り方からして、現場の人間だった。
「こちらです」
俺は金属トレーの夜光蕨、切断された識別タグ、支給食の袋、赤い封印具を順に示した。
宮前さんは手袋をはめ、夜光蕨を見て顔を固くした。
「採取場所を証言できますか」
「第五層より下。地下の大空洞」
神代さんが答える。
「入場許可番号は」
「契約端末にある」
破損した腕部端末をケーブルでつなぐと、画面の半分だけが点灯した。宮前さんが許可番号を読み取り、市の照会システムへ入力する。
結果は、該当なし。
「桁数は合っています。でも先頭二文字は北海道地区の調査許可です。灰岳市では発行しません」
「承認済みだと説明された」
午前七時四十七分。
店の奥で、古い受信機が鳴った。
短い電子音が二度。
表示窓の左端に赤い縦線が浮かび、数字になる前に消える。
俺は椅子を蹴るように立ち、受信機へ駆け寄った。
「何ですか」
宮前さんが後ろから覗き込む。
「旧第十四物資庫の手回し式非常信号です。ただ、発電量が足りない。識別番号の一桁目しか届かなかった」
物資庫内の操作板には、体力を温存するため四時間おきに再送する手順が貼られていた。
あの二人が表示を読める状態なら、次は午前十一時四十七分。
神代さんが輸液台をつかんで立つ。
「いま行く」
「座ってください」
「四時間も待てない」
待つ、という一語で、輸液台を握る指が白くなった。
「待つだけではありません。四時間で、帰せる状態を作ります」
神代さんは何か言いかけた。
だが、誰を思い出したのかまでは口にせず、長椅子へ座り直した。
「説明した人の名前は」
答えが出る前に、神代さんの端末が震えた。
破損しているのに、音声通話だけが生きていたらしい。
表示された発信者名を見て、店内の空気が変わる。
榊原隆臣。
神代さんが俺を見る。
「出てください。記録します」
宮前さんがタブレットを操作した。
神代さんは通話を受け、スピーカーへ切り替えた。
『神代探索者。ご無事で何よりです』
柔らかい声だった。
六年前と変わらない。
人の心配をしているように聞こえる声で、最初に会社の損失を数える男の声だ。
「二人が中に残ってる」
『把握しています。こちらで適切に対応しますので、まず貸与装備と取得物を回収担当へ渡してください』
「救助は」
『調査員の所在確認を進めています。ただ、神代探索者が契約経路を外れたことで、現場情報に混乱が生じています』
契約経路。
存在しない許可番号で、閉鎖迷宮へ入れた人間が使うには便利な言葉だった。
「榊原部長」
口を挟むと、通話の向こうが静かになった。
『……真壁君ですか』
「お久しぶりです」
『帰路亭を開かれたとは聞いていました。君らしい場所ですね』
「褒め言葉として受け取るには、当時の人事評価と矛盾します」
『昔の話は、いずれ落ち着いて。いまは専門家へ任せてください』
「専門家なら、残留者の氏名と最終位置を答えられますか」
『機密情報です』
「救助対象の名前が機密なら、御社の安全管理はずいぶん秘密主義になった」
『真壁君。部外者が不確かな情報で動けば、かえって人命を危険にさらします』
部外者。
六年前には責任者と呼ばれ、事故の翌日からは原因と呼ばれた。
組織の呼称は便利だ。人間を一語で安全圏の外へ出せる。
「では、市の担当者へ代わります」
宮前さんが名乗ると、榊原の声からわずかに温度が消えた。
『行政への正式報告は準備中です。神代探索者には守秘義務があります。現物の保全にもご配慮ください』
「現時点で灰岳迷宮への有効な入場許可は一件もありません」
『確認系統の違いでしょう』
「全国照会です」
『では、法務を通して回答します』
通話が切れた。
最初から最後まで、二人の救助時刻は出なかった。
ほぼ同時に、店先へ白いワゴン車が止まった。
東都開発の社章。
作業服の男が二人と、社員証を首から下げた女が一人降りてくる。手には装備運搬用の封印ケース。
「回収担当です。神代探索者の貸与装備と取得物を引き取ります」
電話を切ってから到着まで、二分もかかっていない。
救助隊より、会社の所有物の方が到着予定時刻を厳守されている。
宮前さんが入口へ立ち、行政の証拠保全票を掲げた。
「現物は救助妨害の疑いを含む公的調査対象です。引き渡しを求めるなら、責任者名と法的根拠を書面で提出してください」
「当社の資産です」
「いまは人命救助の証拠です」
社員は店内の神代さんを見た。
「契約違反になりますよ」
神代さんの視線が、テーブルの赤い封印具へ落ちる。
それでも手は伸ばさなかった。
「二人を連れて帰ってから聞く」
白いワゴン車は駐車場から動かなかった。
見張るつもりらしい。
こちらとしても、会社が現場を監視している記録が増えるのは悪くなかった。
「緊急救助として封鎖を開けます」
宮前さんが即座に言った。
「消防の迷宮隊を集めます。ただし灰岳の地図は六年前で止まっています。内部構造が変動しているなら、先導できる人が必要です」
「私が行く」
「あなたは治療対象です」
俺と宮前さんの声が重なった。
神代さんは輸液袋を掲げて見せる。
「治療中」
「点滴を携帯食みたいに扱わないでください」
「道を覚えているのは私だけ」
「倒れた場所も分からないと言っていたでしょう」
「途中までは分かる。私なら魔物を止められる」
それも事実だった。
救助隊が編成され、古い地図を確認し、装備を運び込むまで最低二時間。小野寺と葛西に水がなければ、待つほど状態は悪くなる。
しかし、神代さんをそのまま戻せば、要救助者が一名増える確率も高い。
「条件があります」
俺は言った。
「あと二時間は補給と治療。雷撃は原則禁止。俺が決めた速度と撤退時刻を守る。破った時点で地上へ戻す」
「真壁も来る前提?」
「旧第十四物資庫までの経路と、六年前の退路を知っています」
「免許は休止中でしょう」
宮前さんが俺を見る。
「緊急救助協力者としての手続きはできます。ただし戦闘行為は禁止。市の指揮下に入り、位置記録を常時送信。救助以外の物品採取も禁止です」
「十分です」
「私はまだ許可すると言っていません」
「では、許可に必要な書類をください。書きながら準備します」
宮前さんは一秒だけ目を閉じた。
「現場慣れした人って、どうして全員、手続きに従うふりをして手続きを急かすんですか」
「手続きが人命を守ると知っているからです」
「その答えを出されると、止めにくいんですよ」
俺は厨房へ入り、在庫を数えた。
水。経口補水液。塩。砂糖。米。鶏肉。卵。保温ボトル。使い捨てカイロ。布テープ。ゴミ袋。
飲食店の在庫は、盛りつけ方を変えれば救助物資になる。
商売の予定は壊滅したが、使い道としては間違っていない。
待つ四時間は、負傷者には長い。
準備する側には短かった。
宮前さんが古い図面へ現在の封鎖箇所を書き込み、消防隊が入口までの中継計画を組む。俺は店の棚から救助に使える物を抜き出し、神代さんは食べて、診察を受けて、時計を見た。
時刻を確認するたび、彼女の指が輸液台を握った。
それでも、今度は立たなかった。
午前十一時四十七分。
神代さんは卵焼き二切れ、鶏粥一杯、すりおろし林檎、経口補水液五百ミリリットルを摂取。体温三十六・一度。脈拍は安静時九十台まで低下した。
「朝食二人前」
神代さんが空の皿を見て言う。
「一人前を二回に分けただけです」
「看板に偽りあり」
「救護食に食べ放題を期待しないでください」
予定の時刻になっても、受信機は鳴らなかった。
十秒。
二十秒。
神代さんが空の皿から受信機へ視線を移す。
三十秒。
「真壁」
「まだです」
言いながら、俺も秒針を見ていた。
手回し発電機を回す腕が残っていない可能性。葛西の容体が悪化した可能性。小野寺一人では再送できない可能性。
四十一秒。
そのとき、店の奥で古い受信機が鳴った。
一度だけ。
短い電子音のあと、表示窓に赤い数字が浮かぶ。
14。
六年前の物資庫へつないでいた、手回し式の非常信号だ。閉鎖時に回収できなかった受信機を、俺は捨てずに店へ置いていた。
電池は物資庫側で発電しなければ保たない。
誰かが、下でハンドルを回した。
生きている。
少なくとも、いまこの瞬間までは。
表示は三秒で消えた。
だが十分だった。
俺はホワイトボードの『推定』を消す。
旧第十四物資庫。
その下へ、油性ペンで新しい時刻を書いた。
午前十一時四十七分、生存信号。
「行きます」
神代さんが立ち上がる。
今度は膝が折れなかった。
「まず会計を」
「救助前に?」
「食い逃げを同行者にしたくないので」
神代さんは初めて、はっきり笑った。
「帰ってから払う」
「では、生還理由を一つ追加しておきます」
俺は前掛けを外した。
白い調理着の上から、六年ぶりに装備ベルトを締める。
帰れない二人へ、水と食事を届けるために。




