開店初日の客は、血まみれのSランクだった
開店初日の朝、最初に店へ入ってきたのは客ではなかった。
血だった。
正確には、入口の磨りガラスへべったりと押しつけられた、五本の赤い指跡である。
俺は鍋の火を弱めた。
時計は午前五時四十分。開店まで二十分。炊飯器は正常、出汁も予定どおり、釣り銭も確認済み。今日いちばんの問題は、客が一人も来ない可能性だったはずだ。
飲食店の開業計画に、血痕は入れていない。
「……初日から、ずいぶん景気がいいな」
独り言に返事はなかった。
代わりに、扉の向こうで金属が地面を引っかく音がした。
俺はコンロを止め、壁際の救急箱をつかんだ。厨房から入口まで七歩。その途中で、店内の配置を頭の中でもう一度なぞる。
長椅子。毛布。洗浄用の水。店の裏手に車を回せる空間。最寄りの救急拠点まで、朝なら十二分。
半年前、古い職員食堂を改装するとき、そんなものまで必要かと工務店に笑われた。
必要にならない設備は、優秀な設備だ。
少なくとも、俺はそう教わった。
鍵を開け、扉を押す。
重い。
隙間から白い装甲が見えた。人が扉へもたれかかっている。
「聞こえますか」
返事はない。
扉をいったん戻し、裏口から外へ回った。
夏の朝なのに、山から下りる空気は冷たい。閉鎖された灰岳迷宮の正面ゲートが、薄青い霧の向こうに沈んでいる。その手前、帰路亭の軒下に、一人の女が倒れていた。
長い黒髪。白い軽装甲。右手には、片刃の剣を握ったまま。
左脇腹から流れた血が、装甲の継ぎ目を黒く染めていた。
周囲に他の人影はない。道路にも車はない。争った痕跡も、血の続きも見当たらない。
俺は女の手が届かない側からしゃがんだ。
「声が聞こえたら、目を開けてください」
肩には触れない。意識が戻った瞬間に剣を振るう可能性がある。
呼吸は浅いが、一定。頸動脈は速い。額に触れなくても、露出した指先の色で体温が落ちていると分かる。
出血量は見た目ほど多くない。脇腹の傷は長いが、装甲が刃をそらしている。問題は、その周囲にこびりついた青黒い粉だった。
魔素焼け。
迷宮の奥で長時間、強い魔素を浴びた人間に出る。
六年ぶりに見た。
見間違えたかった。
ここは灰岳迷宮の正面だが、迷宮自体は六年前から閉鎖されている。国の封鎖錠は、今も巨大なゲートの中央で赤いランプを点滅させていた。
誰も入れない場所から、探索者が出てくるはずがない。
誰も入っていないのなら。
「救急へ連絡します」
携帯電話を出した瞬間、手首をつかまれた。
細い指だった。
だが、鉄の万力みたいな力だった。
「……待って」
女の灰色の目が、わずかに開いている。
「待てる状態かは、俺が決めます」
「会社、に……見つかる」
「会社と救急は別組織です。少なくとも建前では」
「白い、車……」
そこまで言って、指の力が抜けた。
道路の先へ目を向ける。
何も見えない。
ただ、山道の向こうから、低いエンジン音が近づいていた。
判断に使える時間は、おそらく一分もない。
意識は反応あり。呼吸路に異常なし。大出血なし。いますぐ搬送しなければ数分で死ぬ状態ではない。ただし、ここへ放置する選択肢は論外だ。
「剣を離せますか」
「……無理」
「でしょうね」
俺は女の右手ごと剣を固定し、肩を貸した。
「運びます。斬らないでください。今日、厨房に立てる人間が俺しかいない」
「善処、する」
「努力目標で刃物を管理しないでもらえますか」
立たせようとした途端、女の膝が折れた。
仕方なく背中と膝裏へ腕を回す。軽い。装備込みなら七十キロ近いはずなのに、そう感じるより先に身体が持ち上げ方を思い出していた。
腰を落とす。重心を寄せる。傷口を圧迫しない。
六年使わなくても、嫌な手順ほど身体から抜けない。
店へ運び込み、長椅子へ寝かせる。剣は手の中から奪わず、鞘に入ったのを確認して壁際へ置いた。
扉を閉め、鍵をかける。
直後、白いワゴン車が店の前を通った。
曇りガラス越しに、青い三角形を重ねた社章が見える。
東都迷宮開発。
俺が六年前まで勤めていた会社だ。
車は帰路亭の前でわずかに速度を落とした。
俺は身をかがめたまま、カウンターの下にある照明スイッチを切る。厨房の灯りだけでは、外から客席の様子は見えない。
ワゴン車は十秒ほど迷ってから、そのまま旧管理棟の方向へ走り去った。
店内に、冷蔵庫の駆動音が戻ってくる。
「なるほど」
開店初日の最初の客は、血まみれの探索者。
さらに元勤務先が捜索中。
商売繁盛を願う神様にも、適切な発注量というものを覚えてほしい。
俺は女の前へ戻った。
「あなたを追っている車は行きました。ただし救急搬送が不要になったわけではありません。名前は」
返事はない。
呼吸を確認する。先ほどより深い。意識を失ったというより、緊張が切れたらしい。
まず、濡れた装備を外す必要がある。
肩の留め具には触れず、見える範囲を確認する。装甲の胸元に探索者証があった。本人確認と緊急連絡先の確認は、応急手当の範囲に含まれる。
カードを読み取る。
表示された顔写真は、目の前の女で間違いなかった。
神代凛花、二十七歳。
資格欄の最上段に、金色の一文字がある。
S。
「嘘だろ」
思わず声が出た。
神代凛花。
異名は白雷。国内に十四人しかいないSランク探索者の一人だ。単独で災害級魔物を討伐し、迷宮崩落から三十人を救い出した映像なら、探索業界を離れた俺でも知っている。
ニュースの中では、血を流す役はいつも魔物だった。
いまは神代さんが毛布にくるまり、体温三十五度台で、粥の追加を要求している。
肩書は傷口を塞がない。腹も満たさない。その差を埋めるのが兵站という、たいてい評価表の下の方に置かれる仕事だった。
「神代さん。聞こえますか」
まぶたがわずかに動いた。
「傷を確認します。返事ができなければ、必要な範囲で装備を切ります」
「……高い」
「意識はあるな」
「その装備、高いから」
「命より高ければ考えます」
「三千万」
「少し考えました」
見栄を張った。俺の店と改装費を全部合わせても届かない。
だが、切る。
装甲そのものではなく、脇腹を覆うインナーの縫い目を救急ばさみで開いた。傷を洗浄し、深さを確認する。肋骨の下を斜めに裂かれているが、臓器へ届いた兆候はない。圧迫で出血も弱まった。
体温計は三十五・二度。低い。指先には細かな震え。瞳孔反応は正常だが、唇が白い。
「最後に食べたのは」
「昨日の、昼」
「水分は」
「夜に、ゼリーを一本」
「Sランクは光合成でもできるんですか」
「できたら、便利」
冗談を返す余裕はある。
だが正常な判断とは言いがたい。成人が戦闘を含む探索へ入る補給量ではない。
毛布を二枚かけ、脇へ湯を入れた保温袋を置く。急激に温めすぎない。傷口を再確認してから、簡易測定器を指先へ当てた。
血糖値は低い。酸素飽和度は許容範囲。脈はまだ速い。
「吐き気は」
「ない」
「腹痛」
「切られたところは痛い」
「それ以外です」
「ない」
「少し飲ませます。むせたらやめる」
厨房へ戻る。
鶏の出汁は、朝定食の味噌汁に使う予定だった。脂を除いた分を小鍋へ移し、塩と少量の砂糖を加える。生姜は香りが立つ程度。濃くしすぎない。
料理と応急処置は似ている。
相手の状態を見ずに、良さそうなものを全部入れる人間から失敗する。
ぬるめに冷ましたスープをカップへ入れ、神代さんの上体を起こした。
「ゆっくり。二口で止めます」
「一杯、飲める」
「あなたの自己評価は、いま最も信用できない情報です」
カップを唇へ運ぶ。
神代さんは一口すすり、目を閉じた。
喉が小さく動く。
「……おいしい」
「塩と砂糖と鶏出汁です」
「夢がない」
「夢で血糖値が上がるなら、仕入れ先を教えてください」
二口目。
震えが少し弱くなった。
そこでカップを離すと、神代さんが不満そうに眉を寄せた。ニュースで魔物を真っ二つにしていた顔より、いまの方が年相応に見える。
「五分待って、問題がなければ次です」
「店主」
「真壁です」
「真壁。粥は」
「あります。開店前なので」
「注文する」
「救護されながら注文する客は初めてです」
「開店初日の、最初の客?」
「そうなりますね」
神代さんは毛布の中で、ほんの少し口元を緩めた。
「では、常連一号候補」
「生還率を確認してから会員証を発行します」
軽口を交わしながら、俺は彼女の装備を観察していた。
右肩に泥。左膝に白い石灰質の粉。靴底の溝には、黒い菌糸。どれも灰岳迷宮の浅層で見たものに似ている。
そして、腕部端末から伸びた追跡用ケーブルが刃物で切断されていた。端末の裏には東都開発の管理シール。
腰の個人用補給ポーチは空だった。開いた留め具に、破った栄養剤の銀紙が一片だけ挟まっている。
昨夜の昼から食べていないという本人の申告とは、つじつまが合わない。
「これは誰が使ったんです」
神代さんは目を閉じた。
答える体力がないのか、答えるつもりがないのかは、まだ分からない。
銀色の空袋だけが、照明を返している。
本人の腹には入っていない栄養剤が、店の外にいる誰かへ渡っていた。
会社に見つかる。
追われる心当たりがあり、自分より先に食べさせた相手がいる。ただの事故ではない。
俺は五分待ち、脈と意識に悪化がないことを確認した。柔らかく炊けた米を出汁でさらに煮て、溶き卵を少し落とす。茶碗の三分の一だけよそった。
湯気と一緒に、米と鶏の匂いが立つ。
神代さんの視線が、粥を追った。
「量が少ない」
「まだ試験運用です」
「おかわりは」
「消化状況と相談します」
「厳しい店」
「無事に帰すのが営業方針なので」
口にしてから、自分の言葉に手が止まった。
無事に帰す。
昔、毎朝の打ち合わせで言っていた言葉だ。
成果より先に、生還条件を決める。行動開始より先に、撤退時刻を決める。補給は余れば損失になるが、足りなければ人間が損失になる。
当たり前の話だった。
当たり前を守れなかった結果が、正面ゲートの向こうに十一人分残っている。
スプーンを受け取った神代さんが、粥を一口食べる。
今度は何も言わなかった。
急いで飲み込まず、舌の上で確かめるように噛んでいる。
その沈黙が、料理人としては悪くなかった。
「真壁」
「はい」
「ここは、どこ」
「灰岳迷宮正面、旧職員食堂。今日から帰路亭です」
スプーンが止まった。
「正面……?」
「どこから来たつもりだったんです」
神代さんは答えず、曇りガラスの向こうを見た。
正面ゲートは店からでも見える。だが彼女の装備についた泥は、ゲート周辺の乾いた地面とは違う。昨夜、雨が降ったのは山の北側だけだ。
北側には、東都開発が管理していた保守坑道がある。
六年前に埋め戻した、と報告書には書かれていた。
「救急へ連絡する前に、一つ確認します」
俺は使い捨て手袋をはめ、彼女の靴紐に絡んだものをピンセットで外した。
五センチほどの、青白い葉。
照明の下でも、葉脈がぼんやり光っている。
神代さんの顔から、わずかに血の気が引いた。
「それは」
「夜光蕨です。灰岳迷宮では第五層より下にしか生えない」
金属トレーへ置く。
「この店の前には生えていません。国内の植物園にも、むき出しでは置いていない。あなたは、閉鎖された灰岳迷宮の深層へ入った」
「……違う」
「どこが」
「入ったんじゃない。入れられた」
外で、車のドアが閉まる音がした。
さっきのワゴン車とは方向が違う。
俺は照明をさらに落とし、カウンター越しに駐車場を確認した。配送業者の小型トラックだった。注文していた米袋を荷台から下ろしている。
肩の力を抜く。
初日の納品に安心する飲食店主はいても、それが追っ手でなくて安心する店主は少ないだろう。
「話せますか」
「時間がない」
神代さんは毛布を払い、立とうとした。
足に力が入らず、長椅子へ戻る。
「現在地の把握に三秒かかった人間を、迷宮へ戻すわけにはいきません」
「戻らないと」
「何がある」
神代さんは答えない。
俺は彼女の前へしゃがみ、視線の高さを合わせた。
「会社から隠れたい事情は、あとで聞きます。違法侵入の言い訳もあとです。いま迷宮内に危険があるなら、順番に話してください。場所、人数、状態、最後に確認した時刻」
「あんた、何者」
「今日から食堂の店主です」
「今日までは」
うまい切り返しだった。
弱っていてもSランクらしい。相手の矛盾を逃さない。
「補給係です。人間と荷物を、行って帰すための」
「名前は」
「さっき言いました。真壁修司」
神代さんの目が見開かれた。
「灰岳の、真壁?」
その呼び方を、六年ぶりに聞いた。
公式報告書では補給計画を誤り、十一人を死なせた責任者。
業界では、撤退屋。臆病者。数字しか見ない男。
好きな呼び名を選べる程度には、当時の俺は有名だった。
「その真壁がどれか知りませんが、ここには俺しかいません」
「なら、これを」
神代さんは震える手を装甲の内側へ入れた。
俺は止めかけたが、取り出されたものを見て動けなくなった。
赤い樹脂で固めた、親指ほどの封印具。
表面に刻まれた文字は、汚れていても読める。
H6―14。
灰岳、第六次遠征用、第十四物資庫。
六年前、俺が第4層の退路上へ設置した最後の補給庫だ。
事故後、迷宮の閉鎖が決まった日に、自分の手で封をした。
封印具の切断面は新しい。樹脂の内側が、まだ鮮やかな赤を保っていた。
「どこで、これを」
「下」
「下のどこです」
「分からない。道が動いた。端末も壊れた」
「一人で入ったんですか」
神代さんは首を横に振った。
灰色の目が、初めて明確に揺れた。
「二人、残した」
言葉が店内へ落ちる。
炊飯器が、炊き上がりを知らせる音を鳴らした。
ずいぶん場違いで、だからこそ残酷なほど日常的な音だった。
「一人は足をやられた。もう一人がついてる。でも、水も食料も、ほとんどない」
「最後に見たのは」
「二時間前」
「場所の特徴は」
「古い保管庫。壁に、十四とあった」
目の前の封印具と一致する。
旧第十四物資庫。
正規の地図が残っているなら、地上から最短で三時間。負傷者を連れて戻れば、その倍。迷宮の構造が変わっているなら計算はできない。
水がない。
食料もない。
二時間前から、魔素の濃い閉鎖迷宮に二人。
頭の中で、勝手に数字が並び始める。
必要な水。必要な糖分。担架の重量。予備灯。経路標。入場許可。救助人数。撤退限界。
六年間、考えないようにしてきた数字だった。
店を開けば、現場から離れられると思っていた。
帰ってきた人間へ飯を出すだけなら、誰を行かせるか決めなくていい。誰を置いていくか決めなくていい。
正しい撤退時刻を告げて、無視されることもない。
それなのに俺は、閉鎖ゲートが客席から見える場所を選んで店を作った。
我ながら、未練の在庫管理が甘い。
「救助隊を」
「会社は呼べない」
「会社ではなく、市の迷宮安全課と消防へ連絡します。あなたの処置も必要です」
「間に合わない」
「だから、いまから間に合わせる手順を作る」
俺は立ち上がった。
厨房のホワイトボードから、本日のおすすめと書いた紙を剥がす。その裏へ、油性ペンで項目を書いた。
人数、三。
負傷、一以上。
最終確認、二時間前。
推定地点、旧第十四物資庫。
侵入口、北側保守坑道。
神代さんが、長椅子から俺を見ている。
「戻るなら、まず食べてください」
「戻してくれるの」
「あなたをとは言っていません」
「私がいちばん強い」
「いまのあなたは、うちの店でいちばん弱っている客です」
粥の椀を指す。
「全部食べる。五分休む。その間に、知っていることを全部話す。嘘を一つつくたび、救助の成功率が下がると思ってください」
「厳しい店主」
「無事に帰すのが営業方針です」
今度は、言葉を止めなかった。
神代さんは俺を見たまま、残りの粥を一口食べた。
ゆっくり噛み、飲み込む。
それから、赤い封印具をテーブルの上へ置いた。
「お願い、真壁」
最強と呼ばれる探索者が、毛布にくるまったまま頭を下げた。
「二人を、帰して」
開店時刻を知らせるタイマーが鳴った。
俺は入口の札を、準備中から営業中へ返さなかった。
代わりにホワイトボードへ、最初の補給計画を書き始めた。
六年ぶりに。




