帰ってきた装備を、客席へ通さない
羽鳥さんが最初に手放したのは、腰の索具だった。
『これを外すと、誰も引けません』
「いまは全員、自分の足で立っています」
『分かっています』
分かっていても、迷宮で仲間をつないだ道具を置く手は遅くなる。
帰路亭の側面扉の外。
赤線の手前に立った羽鳥さんは、灰色の外装の上から索具の留めを一つずつ外した。神代さんは防護外装を着け、汚染側で受け取る。成瀬さんと生活衛生担当は黄色い境界。俺は青線の内側で、資材数と手順を有線へ出していた。
「索具は長物袋。金具側から入れて、口を二回巻く。外袋の封印は堂前さんが確認」
『了解』
汚染側待機区画に残る堂前が、画面越しに番号を読む。
人が移動した後も、持ち主が装備の処理を確認できるようにする。
救助だからといって、持ち物を誰の物でもない袋へ変えない。
「羽鳥さん、側面扉へ」
神代さんが言った。
『入ります』
扉が開く。
可搬排気機が低く鳴り、灰色の外装についた細かな粉を側面窓の回収フィルターへ引く。
羽鳥さんが赤線へ一歩入った。
戻らない。
水は使わない。羽鳥さんの乾式除染を始める。
神代さんが吸着布を肩へ当てる。払わない。擦らない。粉を舞わせず、押さえて布へ移す。
「右頬の表示」
『赤。漏入警報はなし』
「送気フードを先に」
成瀬さんが黄色い境界から、清浄送気フードを差し出す。神代さんが外装の頭部へかぶせ、内側へ清浄空気を送る。
これで面体を外す数十秒だけ、羽鳥さんの呼吸を外気から分けられる。
送気の音が変わると、フードの内側で羽鳥さんの肩が一度沈んだ。
「背嚢」
肩帯を外す。
長物袋とは別の二重袋へ入れる。
「外装、上から」
神代さんが首元の離脱帯を引いた。
動かなかった。
「もう一度」
「止めてください」
指に力が乗る前に、俺は言った。映像を拡大する。
右肩から首へ、濡れた灰胞子が筋になって固まっている。離脱帯の端が、その下へ噛んでいた。
「引けば切れます」
神代さんが言った。手は帯に残したまま、力だけを止めている。
「外装が?」
「帯も外装も」
フードの内側で、羽鳥さんの呼吸が浅くなった。
「急に切ると、固まった胞子が割れます」
強さが足りないのではない。
強すぎる方法が使えない。
「粘着捕集布を一枚。首の筋へ貼って、その上から帯だけ切ってください」
成瀬さんが、片面に粘着層のある捕集布を渡す。
神代さんが灰色の筋を粘着捕集布で覆う。成瀬さんは黄色側から、市の除染用安全刃を布と外装の間へ滑らせた。片刃剣ではない。
「張ります」
『お願いします』
羽鳥さんの声は、フードの内側で短く切れた。
神代さんが外装の左右を一定の張力で保つ。成瀬さんが黄色側から、固着した離脱帯だけを切る。
固まった胞子は捕集布へ付いたまま、外装と一緒に開いた。
「頭部、外します」
送気フードを残し、汚染外装だけを後ろへ抜く。
腕。
胴。
脚。
赤線側へ外装を落とさず、神代さんが袋の中へ折り込む。
「黄色へ一歩」
羽鳥さんが境界へ進む。
水城の遠隔計と、生活衛生担当の手持ち計で、髪、首、手首、靴下の表面を測る。
右手首に弱い反応。
清浄布で押さえる。
再測定。
基準内。
「青へ」
送気フードの内側で、羽鳥さんが一度だけ深く息をした。
青線を越える。
救急員が清潔な上着を着せ、予備面体へ交換する。呼吸、脈拍、目と喉の刺激。いずれも異常なし。
「氏名」
「羽鳥澪」
「状態」
「自力歩行。意識清明。曝露症状なし」
一人目を、帰還確認票の緑へ移した。
羽鳥さんは清浄側の十二席へ座らず、青線の外から汚染側画面を見る。
『黒瀬さん。次です』
『了解』
黒瀬は大型盾を洗浄所の外壁へ立て、固定帯を二本かけた。神代さんが受け取ろうとすると、首を振る。
『盾より先に、隊員を通してください』
「盾はそこから動かしません」
俺は答えた。
「処理担当が決まるまで、所有者名と封印番号を付けて固定します」
人を先に数え、物は残す。盾を先に洗いたがるのは持ち主の仕事で、通す順番を決めるのはこっちの仕事だ。
黒瀬が赤線へ入る。
面体圧は正常。外装の切れなし。
吸着、背嚢密封、脱装、測定。
青線を越えた後、最初に羽鳥さんを見る。それから自分の名を言った。
「黒瀬直人。自力歩行。異常なし」
二人目。
水城は測定箱の記録を止める直前まで、四人分の濃度を読み続けた。
『最後の値、保存しました』
「箱は硬質容器。電源を切ってから入れてください」
『記録送信を確認してから』
「市と帰路亭で受信済みです。記録が離れても、箱の所有者は水城さんのままです」
自分の手元から記録が離れたことを確認し、水城が電源を落とす。
三人目。
堂前は四人分の装備袋を数え、封印番号を読み終えてから赤線へ入ろうとした。指が袋の口で止まる。
『外装袋四。背嚢四。索具一。測定箱一。工具袋一。盾一。所有者照合済み』
「人員は」
『汚染側、私一名』
「では、その一名を先にしてください。袋は赤に残します」
堂前が短く笑った。
『了解』
四人目。
午後六時過ぎ。
白峰隊、入域四、地上門通過四、清浄側移行四。
羽鳥澪。黒瀬直人。水城美奈。堂前豪。
全員、自力歩行。意識清明。医療確認へ引き継ぎ。
四つの名前が、同じ帰還確認票へ並んだ。
食事は出さない。まだ厨房は封鎖中で、医療担当も先に診察を指示している。
代わりに、密封した水を一人一本ずつ渡した。
人は帰った。
装備は帰していない。
赤線の内側には、二重袋と硬質容器。側面の外壁には黒瀬の盾。可搬排気機の回収フィルターも、高濃度汚染物になった。
「市の除染車で処理できますか」
俺は宮前さんに訊いた。
「人員用の緊急除染が優先です。大型装備と回収物を受ける容量はありません」
「公設除染室の復旧は」
「排水槽の汚染範囲を調査中。今夜中とは言えません」
生活衛生担当が、六席の赤区域へ使用停止札を置いた。
「汚染物の処理責任と搬出経路が決まるまで、帰路亭の飲食営業は再開できません」
宮前さんの端末へ、設備提供の連絡が一件入った。
東都迷宮開発の移動除染設備。今夜中に搬入可能。
画面の下に、処理責任と作業記録の帰属欄がある。どちらも空欄のままだった。
帰ってきた四人を店へ通すことはできた。
装備と回収フィルターを、誰の責任で同じ境界線の向こうへ通すかは決まっていなかった。




