帰還者を入れれば、食堂が止まる
「この洗浄所で、高濃度の灰胞子が付いた外装を洗えますか」
「洗えません」
店を残すための確認で、俺は店にできないことから答えた。
小暮班の支給品不適合による安全中断が確定した二日後、午後四時過ぎ。
帰路亭の側面にある装備洗浄所を、灰岳市の生活衛生担当が測っていた。床の排水口。厨房までの距離。側面扉を開けた時の風向き。宮前さんはタブレットへ結果を入れ、神代さんは折り畳んだ担架を壁から外して裏側を見せている。
「通常の泥と、低濃度の魔素粉までです」
俺は説明した。
「高濃度汚染は正面ゲートの公設除染室を使う。帰路亭へ来るのは、その後です」
「指定時の運用も、そうなっています」
宮前さんが言う。
「ただ、ここ数日、客席で救急受け入れと証拠品の仮保全を同時に行った。食品と装備の動線が近すぎます」
「改善します」
「改善案を見るための確認です。営業停止を言いに来たわけではありません」
まだ、という言葉を使わなかったのは宮前さんなりの配慮だろう。
生活衛生担当が、洗浄所から店内へ続く側面扉を開けた。
扉の先は客席の端。六席分のテーブルを避ければ、カウンター裏のサービス通路へ出る。厨房は防火扉で閉じられるが、天井の換気は客席とつながっている。
「高濃度汚染者をここへ通した時点で、飲食営業との同時使用は認められません」
「食事を止めれば」
「止めただけでは、厨房、食器、食材、排気、排水を分けたことになりません」
正しい。
看板を裏返せば衛生区分まで裏返るなら、保健所の仕事は看板屋で足りる。
店の電話が鳴った。
宮前さんの業務端末も、ほぼ同時だった。
「灰岳市迷宮安全課、宮前」
彼女の表情が変わる。
「人数。汚染種。公設除染室の状態を順に」
俺は厨房の火を弱めた。
神代さんが、壁の帰還確認画面を開く。
正面ゲートからの映像には、透明な仕切りの向こうへ四人が並んでいた。
黒瀬直人。
水城美奈。
堂前豪。
羽鳥澪。
白峰隊の四名。
全員が灰色の外装を着けたまま、汚染側待機区画にいる。肩、背嚢、脚の外側へ、濡れた灰のような胞子が厚く付着していた。
『第二層の旧培養区で、換気壁が崩れました』
黒瀬が有線で報告する。
『高濃度反応を確認して、予定を切り上げて帰還。入域四、地上門通過四。体調異常なし。ただし、清浄側への移行未完了です』
「公設除染室は」
『排水の逆流検知でインターロック停止。洗浄水が出ません』
宮前さんが別の画面を開く。
排水槽の弁が閉じ、除染室の扉が赤く表示されている。故障したのは迷宮の扉ではない。帰ってきた後に通る、最後の一室だった。
「予備設備は」
「市の移動除染車は隣接迷宮です」
生活衛生担当が答える。
「戻すまで、一時間半以上」
『待機できます』
黒瀬が言った。
その横で、水城が四人の呼吸具を一つずつ測る。
『三名は面体圧正常。羽鳥だけ、右頬のシール圧が低下しています』
「破損?」
『外装の継ぎ目が擦れています。内側フィルターは正常。いまは漏入なし』
いまは。
羽鳥は、自分の頬を触らなかった。代わりに、黒瀬、水城、堂前との距離を一歩広げる。
『私だけ、予備面体へ交換できます』
「外装を外さずに?」
『難しいです』
汚染した外装の内側で面体を交換すれば、その間に胞子を吸う。外装ごと脱ぐなら、除染と密封の動線が要る。
正面ゲートから一番近く、側面入口と装備洗浄所がある施設は、帰路亭だった。
生活衛生担当が俺を見る。
「帰路亭へ高濃度汚染者を入れる場合、飲食営業は即時停止です」
「分かりました」
「厨房を閉鎖し、食材と食器を保全するまで、受け入れはできません。洗浄所の排水も、そのまま流せない」
「分かりました」
「受け入れ後の検査に不合格なら、営業再開日は約束できません」
そこで、返事が一度止まった。
昼の売上。夜の仕込み。明日の予約。
帰路亭は、帰還者を迎えるための店だ。
だが、帰還者を入れれば店が止まる。
矛盾ではない。設備が、二つの役割を同時にできないだけだ。
「神代さん。入口へ『営業終了』を出してください」
「今日の?」
「再開確認が終わるまでです」
神代さんは一度だけ俺の顔を見た。
「了解」
理由も覚悟も聞かず、入口へ向かう。
俺は厨房の火を消した。
煮込み鍋を蓋ごと冷却槽へ移す。焼き上げた鶏は密封容器。切った生野菜は、汚染側の動線が決まるまで厨房から出さない。
「すみません。本日の営業はここで終了します」
客は七人いた。
食事中が四人。注文済みが三人。
会計を止め、未提供分を取り消す。食事中の客には、正面口から順に出てもらう。持ち帰りを希望した人には、厨房内で密封できる物だけを渡した。
「また誰か帰ってくるのか」
常連の一人が訊いた。
「四人です」
「なら、俺の生姜焼きより多いな」
「人数と肉の枚数を同じ表で比べないでください」
「今日は負けてやる」
会計を済ませ、最後の客が出る。
神代さんが入口の鍵を閉めた。閉店の札の横へ、もう一枚貼る。
緊急帰還受け入れ中。
店の役割を、食事から帰還へ切り替えた。
それでも、まだ四人は入れられない。
客席の換気は厨房とつながる。洗浄排水は回収設備がない。汚染外装を密封する容器も、四人分には足りない。
「市の乾式除染資材を出します」
宮前さんが言った。
「吸着布、二重回収袋、封印容器。排水は使わない。ただし、店内の一方向動線と清浄境界を作れることが条件です」
「作ります」
「真壁さん」
「はい」
「四人を入れるために、店を安全でない施設へしないでください」
指定を出した本人が、指定先を止める。
善意に押されて境界を開けないための、正しい役だった。
確認画面で、水城が羽鳥の面体をもう一度測った。
『右頬、警告域へ入りました』
羽鳥だけが、遠方の除染車を待てる側から外れた。
帰路亭の十八席を、食卓のままにしておく時間は終わった。




