七十二時間を捨てて、三人分の明日を残す
小暮さんが失うのは、七十二時間ではなかった。
実際に迷宮で働いた六十七時間と、残り五時間を終えれば手に入るはずだった認定申請資格。
同じ紙へ書くと、片方が消えたことにされる。
「今回の実地を完了扱いにはできません」
運営会社の安全管理室は、そこを譲らなかった。
午後三時前。帰路亭の客席には、新堂梓と有川蒼太。端末の向こうには、救急外来の小暮澄香。検査で重い呼吸障害は見つからなかったが、灰胞子への曝露症状として経過観察が必要だと診断されている。
「六十七時間の後に安全中断した。それでは駄目ですか」
新堂さんが訊いた。
「実地基準は七十二時間です。五時間を免除すれば、別の受験者へ説明できません」
「会社が違う物を入れたのに?」
「原因はまだ調査中です」
言い逃れではない。
同じパレットW19―087の未開封箱を、会社倉庫、市職員、作業者代表の三者で検査している。中にRF―四八があれば、小暮班の現場入替説はさらに薄くなる。だが、誰がどこで誤ったかまでは分からない。
「完了にしろとは言いません」
俺は別の欄を開いた。
「実際に働いた時間、賃金、再実地、三人の契約を分けてください」
「一つの実地契約です」
「だから、資格が未完了なら全部無効になる」
「現行の処理では」
「現行の処理が、認定結果と労働実績を同じ消しゴムで消しています」
完了しなかった。
働かなかった。
会社に原因がなかった。
この三つは同じ意味ではない。
宮前さんが、市の仮保全票を画面へ出した。
「灰岳市として確定できるのは、三名が六十七時間の実地へ入り、支給品不適合の疑いで帰還したことです。本人都合の自主中断には確定していません」
「市が雇用条件を決めることはできません」
「はい。ですから、決めるのは会社です」
宮前さんは責任を奪わなかった。
安全管理室の男が黙る。
新堂さんの膝の上で、指が強く組まれていた。有川さんは何度も寮のカードキーを裏返している。今月末で契約が切れれば、その鍵も使えなくなる。
『条件を読み上げてもいいですか』
小暮さんが言った。
声はまだ擦れている。それでも、補給数を報告する時と同じ順番だった。
『今回の実地を、完了とは扱わない』
新堂さんが顔を上げた。
「小暮さん」
『最後まで聞いて』
敬語が外れた。
新堂さんは、口を閉じた。
『三人の六十七時間を労働実績として残す。実地中の賃金と帰還日の拘束分を支払う。再実地の受験料と装備費は会社負担。次の実地まで、三人の契約と寮を延長する。固定班の審査は、今回の中断を不利益理由にしない』
五つ。
資格そのものではなく、もう一度取りに行ける足場だ。
「最後の条件は、採用を保証しろという意味ですか」
安全管理室が訊いた。
『違います。審査してください。今回帰ったことを、投げた理由にしないでください』
「小暮さん自身の認定は未完了になる」
『はい』
「次回、同じ班で実地へ入れる保証も、現時点ではできません」
『だから、審査を続けてください』
小暮さんは、今回の七十二時間を取り戻そうとしなかった。
六十七時間を働かなかったことにせず、もう一度実地へ入る道を選んだ。
端末に、運営会社倉庫から新しい映像が入った。
W19―087の未開封箱。
白い確認シールを、市職員が番号ごと映す。会社の担当者が刃を入れ、作業者代表が箱を押さえる。
中から出た吸着フィルターは五本。
灰色の帯。
一本目の刻印、RF―四八。
二本目も、RF―四八。
三本目。
四本目。
五本目。
全部、四十八時間型だった。
予定重量との差は、一本百八十グラム。箱全体で九百グラム。
小暮班の三本だけが現場で入れ替わった、という説明は成立しない。
少なくとも、同じパレットに紐づく別箱にも、同じ不一致があった。
「支給品不適合による安全中断を認めます」
安全管理室の男が言った。
「原因部署と責任者は調査を継続します。それとは分けて、小暮さんが示した五条件を、暫定雇用保全として受けます」
「同じパレットで止めた五人班は」
有川さんが訊いた。
「入域予定日の安全待機として賃金を支給します。現物確認が終わった二案件は、明日から実施します」
全員が何も失わない結末ではない。
小暮さんの三回目の実地は、未完了になった。
会社は再実地の費用と契約延長を負う。五人班には、働く予定だった一日の賃金を払う。原因調査は残り、どの部署で型式が入れ替わり、誰が白い確認シールを貼ったかも分からない。
損失を消せない代わりに、誰の欄へ置くかを決めた。
『署名します』
小暮さんが言った。
市の外部保全票へ、電子署名が三つ並ぶ。
小暮澄香。
新堂梓。
有川蒼太。
入域三、帰還三。
実地六十七時間。安全中断。労働実績保全。再実地費用会社負担。固定班審査継続。
救助班も、神代凛花、成瀬達郎。入域二、帰還二。証拠箱回収済み。
誰も、補給庫の封印に残っていない。
◇
午後七時過ぎ。
小暮さんは医療担当から帰宅許可を受け、帰路亭へ戻ってきた。治ったわけではない。追加曝露を避け、翌日も受診する条件付きだ。
「二人に先に出してください」
席へ着く前に言った。
「却下します」
「温かいうちに」
「三つとも同時に出せます」
新堂さんと有川さんが、顔を見合わせた。
厨房から、鶏と根菜の柔らかい煮込みを三つ運ぶ。医療担当の許可を確認し、刺激を抑えた味付けにした。食事は喉を治さない。検査を終えた三人が、空腹のまま帰宅しないための夕食だ。
小暮さんの膳には、補給庫から持ち帰った味の薄い米粥型携行食も、未開封のまま置いた。
「これは」
「あなたの手荷物です」
「店で食べる物ではないでしょう」
「なら、次の実地で食べてください。予定時刻に」
小暮さんが袋を見る。
新堂さんが笑った。
「次は桃味も一個入れます」
「要りません」
「蜂蜜レモン」
「もっと要りません」
有川さんが、初めて大きな声で笑った。
小暮さんは困った顔をして、それから自分の箸を取った。
二人の皿を確認してからではない。
三人が、同時に食べ始めた。
今回の七十二時間は完成しなかった。
それでも三人の仕事と、次に帰ってくる場所は残った。
閉店後、宮前さんが一枚の確認通知をカウンターへ置いた。
「帰路亭の客席、装備洗浄所、救急受け入れを同時に使った場合の、施設運用区分を確認します。今回の暫定雇用保全とは別件です。次の緊急受け入れまでに、飲食営業と帰還支援を同時に動かせる区分か確認します」
「営業停止ですか」
「まだ、確認です」
確認で済むうちに、帰還支援所と食堂の境界を引かなければならない。




