証拠箱より先に、補給係を運ぶ
証拠箱は、小暮さんより先に地上へ出さない。
決めた順番を、救助対象本人だけが守ろうとしなかった。
『歩けます。箱も持てます』
西側滞在区から届く声は、さっきより近い。神代さんと成瀬さんが補給庫へ到着し、小暮澄香を壁際の簡易椅子へ座らせていた。
映像の中央には小暮さん。右には未使用フィルターの開封箱。左には交換時刻を記した薄い台帳。
人と証拠が、同じ画面へ収まっている。
「持てるかではなく、持たせる計画かを確認しています」
『補給庫から点検口まで、平坦です』
「距離は」
『六百二十メートル』
「現在の症状」
『軽い咳。指先のしびれ』
「立った時のふらつき」
返事が一拍遅れた。
『ありません』
『あった』
神代さんが即座に訂正した。
『立って三歩で、右へ寄った』
『床の継ぎ目です』
『継ぎ目は左にあった』
小暮さんは黙った。
同業者が自分の不調を在庫表から外す時、説明だけが妙に細かくなる。俺にも覚えがある。覚えがあるから、信用しない。
「成瀬さん。搬送補助は」
『簡易支持帯が一。折り畳み椅子はあるが、車輪なし』
「歩行六百二十メートルを前提にしないでください。百メートルごとに停止。最初の停止でふらつきが増えたら、二人で支持帯搬送へ切り替える」
『了解』
『箱はどうします』
小暮さんが訊いた。
「置いてきます」
『交換記録も現物も、会社の立会い前に無人になります』
「市と帰路亭の映像を継続します。扉へ市の封印帯。小暮さんを点検口へ渡した後、成瀬さんが戻って回収する」
『二往復です』
「さっきも聞きました」
『何の話ですか』
「同じ反論を二度も補給しなくていい、という話です」
神代さんが画面の外で小さく息を吐いた。笑ったらしい。
小暮さんは笑わなかった。代わりに、開いた在庫台帳を自分の膝へ引き寄せる。
『それなら、未開封品と使用中品の管理番号を、もう一度読み上げます』
「お願いします」
救助へ移っても、仕事を奪わない。記録を閉じるのは小暮さんだ。
灰色の箱。切れた白い確認シール。交換済みのRF―四八。棚ごとの封印番号。小暮さんは咳の合間にも、数字を一つも飛ばさなかった。
その途中で、成瀬さんの手が在庫棚の下段で止まった。
『食料欄も撮ります。残数一』
透明袋に、味の薄い米粥型の携行食が一つ入っている。表面には油性ペンで「小暮 最終日」と書かれていた。
「予定消費時刻は」
『本日十時三十分』
「現在時刻は午後零時四十一分です」
『食欲がなかったので』
新堂さんが、客席から画面をのぞき込んだ。
「違います」
声が震えていた。
「小暮さん、甘いのが苦手なんです。だから自分の分だけ、いつも味の薄いのにしてた」
有川さんが自分の荷物から、空になった栄養食の袋を出す。桃味。新堂さんの袋は蜂蜜レモン味だった。
「私たちのは、一日二つずつ入ってました」
「小暮さんのは?」
「一日一つです。足りないって言ったら、甘いのは苦手だからって」
『必要熱量は別の食事で満たしています』
小暮さんが言う。
「その別の食事も、今朝で残数ゼロです」
俺は映像の在庫欄を読む。
三人分を七十二時間もたせる補給表の中で、小暮澄香だけが最初から少なかった。
RF―四八は、支給品として生じた不足だ。
こちらは、小暮さん自身が作った不足だった。
「食べてから出る?」
神代さんが訊いた。
『時間を使います』
「食事は治療にならない。でも、空腹のまま六百二十メートル歩く理由にもならない」
『医療担当が、いま食べていいと言いましたか』
神代さんが端末を見る。
帰路亭の救急員は、少量の水だけ、食事は地上で診察後と指示した。吐き気が出た場合、搬送の邪魔になる。
『水だけ』
神代さんは事実をそのまま返した。
『食べさせて黙らせるのはなし。帰って、医者に聞く』
『なら、この一袋は証拠箱へ』
「入れません」
『補給計画の偏りを示します』
「小暮さんの食事は証拠品ではありません。本人の手荷物です」
『区別に意味がありますか』
「あります。帰った後も、あなたのものです」
小暮さんの右手が、米粥の袋へ伸びた。封印シールを押さえるため短く切った親指の爪が、透明な包装へ触れる。
それから自分の上着のポケットへ入れた。
『出ます』
午後零時四十八分。
補給庫の扉を閉める。成瀬さんが市の青い封印帯を通し、番号を映像へ読ませる。小暮さんは記録欄へ自分で時刻を入れた。
最初の百メートルで、歩幅が狭くなった。
二百メートルで咳が続いた。
三百メートルへ着く前に、右足が止まった。
『搬送へ切り替える』
神代さんが言った。
『歩けます』
『歩ける。だから、歩かせない』
強さで命令を押し切ったのではない。最初から決めていた停止条件を、小暮さんだけ例外にしなかった。
支持帯を腰と腿へ回す。神代さんが前、成瀬さんが後ろ。片刃剣は帰路亭に置いたまま。いま使う力は、人を傷つけるためのものではなかった。
午後一時二分。
西側点検口の内側に三人の姿が見えた。
「氏名を」
宮前さんが確認台を開く。
「小暮澄香」
「状態」
「歩行困難。咳、指先のしびれ。意識清明」
今度は、自分の症状を削らなかった。
点検口を越える。救急員が小暮さんを受け取り、呼吸と循環を確認する。
「箱は」
担架へ移されながら、小暮さんはやはり最初に訊いた。
『これから戻る』
成瀬さんの声が有線から届く。
「あなたが先です」
俺は確認票へ帰還時刻を書いた。
「その順番で、問題ありません」
七分後、青い封印帯の付いた硬質ケースが地上へ出た。未使用箱、交換記録、使用中フィルター。番号は映像と一致する。
帰ってきた順番は、小暮澄香。次に、証拠箱だった。
運営会社から届いた安全中断案には、別の順番が書かれていた。
対象ロットだけを止める区分はない。
認めるなら、西側滞在区の全案件を停止する。
小暮さん一人の自主中断か、働いている全員の安全停止か。
会社は、二つの正しい損失を並べてきた。




