帰れば失職する補給係は、救助を断った
救助対象者本人から、救助を断る電話が来た。
『帰路亭ですか』
女の声は落ち着いていた。落ち着きすぎて、二度目の咳を切る音の方がよく聞こえた。
『小暮澄香です。西側滞在区の補給管理を担当しています。救助は要りません。新堂梓と有川蒼太、二名の帰還確認だけ先に閉じてください』
第六事件から四日後、午前十一時過ぎ。
帰路亭の昼営業は、煮魚定食を三つ出したところで止まっていた。店の前には灰岳市の救急車が一台。客席には、灰色の作業着を着た若い男女が二人。新堂梓と有川蒼太は医療班の確認を終え、喉の痛みと指先のしびれだけで、呼吸に異常はない。
帰ってきた二人だ。隊長だけが、迷宮の中に残っている。
「小暮さん。現在地と、使える補給を教えてください」
『第二層西側、長期滞在試験区の補給庫。防火扉を閉鎖。吸着フィルター未使用一、飲料水二リットル、携行食二食。魔物反応なし』
「救助を断る理由は」
『負傷していないからです』
三度目の咳。
「質問を変えます。帰ると、何を失いますか」
通話の向こうが、少し静かになった。
隣で神代さんが、白い軽装甲の留め具を締めている。片刃剣はまだ壁際だ。こちらを見ずに、出動用の濾過缶だけを確かめていた。
『滞在補給管理者の実地認定です』
小暮さんが答えた。
『今回が三回目でした。七十二時間を終えれば申請できる。自己都合で中断すれば、実地記録は無効になります』
「それだけじゃありません」
新堂さんが膝の上で両手を握った。
「小暮さんが認定を取れば、私と有川も固定班で採用される予定でした。取れなかったら、契約は今月までです」
「次の現場も、寮もなくなります」
有川さんが続ける。
資格。収入。一緒に働く二人。小暮さんが帰れば、三つとも会社の書類から落ちる。
「二人を帰したのは、小暮さんですね」
『指先のしびれが出たので。本人たちは残ると言いましたが、補給管理者の指示で帰還させました』
「自分には同じ指示を出さない」
『私は責任者です』
「責任者は、症状が出ない職種でしたか」
『皮肉なら間に合っています』
声が少しだけ硬くなった。会話を切らない程度には、こちらを嫌ってくれたらしい。
「なら、実務の話をします。会社の中断区分は」
宮前さんが端末を寄せる。
長期滞在実地は、作業者本人の判断で帰れば自主中断。認定時間は無効。会社が設備または支給品の不具合を認めて止めれば、事業者都合の安全中断となり、それまでの実地時間と賃金保証は審査対象として残る。
今回、会社はまだ中断を宣言していなかった。二人の帰還も、小暮さん個人の判断として処理しようとしている。
「西側滞在区の警報は、市の監視網に上がっていません」
宮前さんが言った。
「現場の簡易検知器だけです。運営会社は誤作動の可能性があるとして、設備不良を認めていません」
『だから私が出れば、自主中断で確定します』
「出なければ?」
『補給庫を第三者が確認するまで、現場を保全できます』
小暮さんは助けを待っているのではない。証拠を守るために、自分を倉庫の封印へ使っている。
「私が入る」
神代さんが言った。
『来ないでください』
「連れて帰る」
『私の同意なしで救助されれば、会社は作業放棄にできます。助けた記録が、私の自己都合を完成させます』
神代さんの指が、濾過缶の留め具で止まった。
救える距離へ着くのは得意だ。着いた後、相手の生活を壊さず帰す方は、剣より面倒だった。
「本人が嫌だと言っても、呼吸が足りなくなれば連れて帰る」
『その時は抵抗しません』
「その時まで残るつもり?」
『第三者の確認が来るまでです』
「いつ来る」
『会社は回答していません』
神代さんが俺を見る。怒っている。小暮さんではなく、人が苦しくなるまで待てば書類が整う仕組みに。
俺も同じだった。ただ、怒りをそのまま救助計画へ入れると、運ばれる人間が荷物になる。
「小暮さん。一度だけ、検証を保留にします」
俺は宮前さんの端末へ、先日の共同撤退手順を開いた。
目的は、警報の原因と支給品の適合確認。受益者は小暮さん、新堂さん、有川さん。危険を負っているのは、いま迷宮に残る小暮さん一人。だから、希望だけで延長はしない。
「補給庫から出ずに、一回だけ在庫を映してください。吸着フィルターの箱、現物の帯色、管理番号。会社へ送る前に、市と帰路亭で同時に記録します」
『それで会社が中断を認める保証は』
「ありません」
『正直ですね』
「保証できないものを補給表へ書くと、あとで人が死にます」
通話の向こうで、かすかな息が漏れた。笑ったのか、また咳をこらえたのかは分からない。
「映像確認が終わったら、設備不良が証明できなくても救助へ移ります。応答が途切れた場合も同じです。二度目の保留はありません」
『私が断ったら』
「救助拒否と、あなたが失うものを記録します。その上で、生命危険が出れば宮前さんの権限で入域する」
「私が行く」
神代さんが重ねた。
「今度は、連れて帰るだけにしない」
小暮さんはしばらく答えなかった。
『映します』
補給庫の映像が端末へつながる。
棚は整っていた。飲料水は床から上げ、携行食は消費期限順。使用済みフィルターは密封袋へ入れ、誰がいつ交換したかを一枚ずつ書いてある。残る一箱だけが、最上段に置かれていた。
『支給品です。管理表では七十二時間対応』
「箱を近くへ」
小暮さんが端末を持ち上げる。灰色の箱。管理票の上から会社の白い確認シールが貼られている。
「剥がさず、側面を映してください」
『側面?』
「封印のない方です」
映像が傾いた。箱の底に近い位置へ、メーカーの小さな印字が残っていた。
型式RF―四八。連続使用、四十八時間以内。
管理表の七十二時間用ではない。
新堂さんが、自分の使用済み濾過缶を見た。有川さんも、首元から交換済みの帯を外す。どちらにも、同じ灰色の線が入っている。
「真壁さん」
宮前さんの声が低くなった。
「三人の実地開始から、何時間ですか」
『六十七時間です』
小暮さんが答えた。
認定を取るための七十二時間。会社が用意した補給は、最初から四十八時間分だった。
『これなら、会社都合になりますか』
「証拠の入口にはなります」
『入口だけ』
「映像を切らずに、未使用品を開けて交換してください」
『封印がなくなります』
「いま市と帰路亭で記録しています。箱ではなく、あなたの喉を封印にしないでください」
小暮さんは少し迷い、それから白い確認シールへ爪を入れた。
新しいフィルターを着けた後、咳がすぐ消えることはない。治療は帰還後だ。
「帰り道も、入口から作ります」
俺は未使用箱の管理番号を記録した。
助けに行く前に、帰れば失うものを一つずつ地上へ移す。小暮澄香を、証拠の代わりに迷宮へ置いたままにしないために。




