切る線には、名前を書く
九分短くなったのは、時計だけではなかった。
「十七時三十一分、共通昇路を遮断します」
久世環は、北側の赤枠へ五人の名前を書いた。
有馬航平。
水原鈴。
長谷部淳。
神代凛花。
成瀬達郎。
救助対象と救助者を分けない。
午後五時十八分。二度目の圧力上昇で、遮断期限は五時四十分から五時三十一分へ変わった。
神代さんと成瀬さんは第一曲路を越え、N7へ向かっている。
引き返せば間に合う。
三人を連れては、間に合わない。
「判断者、久世環」
久世は五人の下へ自署した。
「東側班六名の退路と地上設備を守るため、三十一分で全体遮断。救助班はN7接触前なら即時反転」
『聞こえてる』
神代さんの声は乱れていなかった。
『N7まで、あと二分』
「十七時二十分までに扉へ着かなければ戻ってください」
『着いた場合は』
「扉を開けず、再指示を待つ」
『了解』
返事が速い。
だから、地上側が迷ってはいけない。
俺は圧力線を見直した。
上昇は全区画で同じではない。
東側計測支線だけが、三十秒ごとに波打っている。六名が撤退したあとも、現場の吸気ポンプが自動運転を続けていた。
「東側班長」
氏名確認台の前にいた男が立った。
「計測支線に残した機材は」
「吸気ポンプ一。測定台車二。圧力記録端末」
「遠隔停止は」
「回線が落ちています」
「東支線だけを遮断した場合、機材は」
男は一度、奥歯を噛んだ。
「逆流で壊れます。記録端末も回収できない」
「人は」
「いません。入域六、帰還六。確認済みです」
物は残っている。
人はいない。
切るなら、先にそちらだ。
「久世さん。全体遮断の前に、東側計測支線だけを閉じます」
「却下します」
「理由を」
「東支線を閉じれば、逆流圧が北へ逃げる可能性があります。九十秒以内に圧力が下がらなければ、N7側の上昇を早める」
「下がった場合は」
「共通昇路の遮断期限を、最長十二分延長できます」
九十秒を使って、十二分を買う。
失敗すれば、五人の残り時間をさらに削る。
「実行者と失敗時の処理を書きます」
「希望の話はしていません」
「俺もしていません」
黄色い保留枠へ時刻を入れた。
十七時二十二分、東支線段階閉鎖。
十七時二十三分三十秒、圧力低下なし、または北側上昇時は全体遮断準備へ移行。
十七時三十一分、全体遮断は維持。
実行者、真壁修司。
「受益者は、北側三名と救助班二名。危険を負うのも同じ五名です」
「失う物は」
「東側の吸気ポンプ、測定台車二、記録端末。帰路亭の予備電源は送気継続で放電。通常営業は中断済み」
「失敗時の復帰点は」
「神代さんと成瀬さんは、N7を開けず第一曲路へ戻る。三十一分までに地上門通過」
久世は俺の字を一行ずつ読んだ。
「北側三名は残ります」
「はい」
「その判断を、あなたが実行する」
「はい」
全員帰還を口にするだけなら、ここへは書けない。
俺がスイッチを押せば、助けられなかった三人の線を自分で閉じることになる。
それでも、失敗した時に別の誰かへ渡すつもりはなかった。
『N7、到着』
午後五時二十分。
監視画面に神代さんと成瀬さんが映る。扉の向こうで、有馬が手動灯を二度振った。
届いている。
手を伸ばせば見える距離に、三人がいる。
「神代さん」
『聞いてる』
「東支線を一度だけ閉じます。二十三分三十秒までに延長できなければ、開扉せず撤退」
『三人が見えても?』
「見えていてもです」
短い沈黙。
『私の撤退期限、二十四分。開いていなければ戻る』
久世が、凛花の名の横へ書いた。
本人選択、十七時二十四分。
『成瀬、同じです』
「記録しました」
久世は二人の期限へ、自分の判断者印を重ねた。
「真壁さん。段階閉鎖を認めます。一回だけです」
仮設制御卓の保護蓋を上げる。
東支線の表示は橙。
共通昇路は赤。
北側の五人は、久世の表でも赤だった。
赤は死亡を意味しない。
誰の判断で主計画から外れるかを、消さずに残す色だ。
午後五時二十二分。
「東支線、閉鎖します」
スイッチを押した。
表示が橙から黒へ変わる。
客席で東側班長が目を閉じた。機材を失う音は、ここまでは聞こえない。
圧力線が一度、跳ねた。
北側も上がる。
「上昇、〇・七」
宮前さんが読み上げる。
失敗なら、すぐ全体遮断準備へ移る。
五人の名を見ながら、俺は次のスイッチへ指を置いた。
「一・一」
上がった。
『真壁』
神代さんが呼ぶ。
「待機」
十五秒。
三十秒。
東の波形が消える。
「北側、〇・九」
まだ基準より高い。
「〇・六」
下がる。
「〇・三」
共通昇路の赤線が、ゆっくり黄色へ戻った。
午後五時二十三分十一秒。
「予測更新」
宮前さんの声が少し裏返る。
「全体遮断、十七時四十三分」
十二分。
買えたのは時間で、救助ではない。
久世は五人の名前を赤枠から消さなかった。
横へ、黄色い線を一本だけ足す。
検証成功。遮断期限延長。帰還未確認。
「まだ切断判断は撤回しません」
「分かっています」
「地上門を通り、氏名を答えるまで、この五人は赤枠です」
助かりそうだ、で記録を閉じない。
その厳しさは、俺にも必要だった。
「開けてください」
久世が言った。
『了解』
成瀬さんがN7の手動輪へ工具を掛ける。
神代さんは扉の隙間へ身体を入れず、圧力計だけを見た。
速い人間が待ち、資格を持つ人間が開ける。
午後五時二十四分。
N7が開いた。
有馬と水原が、工具そりに長谷部を固定して押し出す。長谷部の左脚は副木で固められ、送気管は胸元の接続口へ結ばれていた。
『五名、接触』
「氏名」
『有馬航平。水原鈴。長谷部淳』
『神代凛花。成瀬達郎』
「帰還順」
『神代、そり前。成瀬、そり後。有馬、水原、後尾』
「長谷部さんは」
『上で寝てます。できれば、もう少し高級な乗り物を希望します』
声が聞こえる。
痛みはある。意識はある。
「帰ってから苦情票を出してください」
『食事券も付きます?』
「医療の許可が出たら」
『じゃあ帰ります』
そりが動く。
送気管を外し、封印していた濾過缶を長谷部へ接続する。一本分の風は、ここで役目を終えた。
午後五時二十九分。
五人がN7を地上側へ越える。
成瀬さんが手動輪を閉じ、扉へ通過済み印を付けた。
赤枠の五人は、まだ帰還済みではない。
だがもう、切った線の向こう側にはいなかった。




