三人に、一本分の呼吸を分ける
地上から送った風は、三人分には一人分足りなかった。
『流量、安定しました』
有線の向こうで、水原鈴が報告する。
『ただし、この量で動けるのは一人です。安静なら二人。三人同時は無理』
午後五時五分。
北側保守班と声がつながってから、三分が経っていた。
帰路亭のカウンターには、久世環の撤退表、灰岳迷宮の配管図、それから九枚の夕食札が並んでいる。
六枚は裏返されていた。東側班六名は帰還済み。
三枚は表のまま。
名前だけが、まだ食事より先に待っている。
「三人へ均等に分けますか」
俺が訊くと、久世は首を振った。
「均等は目的ではありません。帰還可能時間を最大にしてください」
冷たい答えではない。
公平そうに見える配分で、三人まとめて動けなくするなという意味だ。
「有馬さん。残っている濾過缶を、未使用、使用中、交換済みに分けてください」
『未使用一。使用中二。交換済み一』
「使用中二本の開始時刻は」
『一六時前後。水原が一五時五十八分。俺が一六時三分』
「長谷部さんは」
『俺の予備を使ってます』
有馬の声の奥で、誰かが笑った。
『四十一にもなると、若い班長に空気を奢られる。出世したもんです』
「冗談が言えるなら意識は清明ですね」
『痛み止めが効いてるだけです。左脚は相変わらず役立たず』
「役立たずかどうかは、医療へ渡してから決めます。今は動かさないでください」
『店主、厳しいな』
「怪我人に愛想よくしても、搬送重量は減りません」
神代さんの声が別の子機から入る。
『真壁。送気装置の圧が落ちてる』
「何割です」
『一割。安全員が電源側を見てる』
黄色い可搬送気装置は、試験用だ。
旧線一本へ短時間送る想定で、三人を救助完了まで支える設計ではない。接続箱の抵抗も大きく、出力を上げれば帰路亭の予備電源では足りなくなる。
足りないものは、願っても増えない。
なら、使っているものを止める。
「宮前さん。帰路亭の帰還支援用予備回路を、送気へ直結できますか」
市の安全員と通話していた宮前さんが、端末から顔を上げた。
「できます。ただし厨房の電気機器と客席空調は同時使用不可。冷蔵設備は商用回路なので残せます」
「十分です」
「営業は」
「止めます」
昼営業と夜営業の間だった。
仕込んだ飯も、出汁もある。入口には、五時半の開店を待っている常連が二人いる。
店を続けるために救助へ戻ったはずが、救助のために店を閉める。
経営判断としては、たいへん分かりやすく赤字である。
それでも、店の看板には最初から「帰路」と書いてある。
「宮前さん。裏口横の切替盤。三番を落として、七番だけ上げてください」
『三番は』
「厨房と客席です」
『料理、できなくなる』
「帰ってくる前に作った気にならない、とさっき決めたでしょう」
宮前さんは回路表をもう一度見てから、切替盤の蓋を開けた。
『分かった。七番だけ』
照明が非常灯へ切り替わった。
出汁鍋の小さな沸騰音が消える。
入口へ「本日、救助対応のため営業を中断します」と札を出すと、待っていた常連の一人が中を覗いた。
「またですか」
「当店としても、通常営業の頻度を上げたいとは思っています」
「九時くらいなら開きます?」
「帰還人数が確定したら」
「じゃあ、また見に来ます」
慣れないでほしい。
だが、説明を求めず帰ってくれる客はありがたかった。
『流量、二割上昇』
水原の声が戻る。
『これなら、長谷部へ連続送気。有馬と私は濾過缶を交互使用で動けます』
「一本を三人で分けるんですね」
『平等には使いません。必要な人からです』
久世が、撤退表の赤枠へ数字を書いた。
長谷部、連続送気。
有馬、水原、四分交代。
未使用濾過缶一、帰還路用に封印。
「次は搬送です」
俺は言った。
「北側に、担架へ変えられる物はありますか。床へ触れる面、長さ、耐荷重の順で」
『工具運搬そりがあります』
有馬が答える。
『長さ百四十。樹脂底。耐荷重百二十キロ。固定帯は二本』
「長谷部さんの装備込み重量」
『九十一』
「送気管をそりへ固定できますか」
『できます。ただ、N7の手動輪を回す間は誰かがそりを保持する必要がある』
一人が扉。
一人が搬送。
歩ける二人は、自分の濾過缶を使って追従する。
『私一人なら、もっと早い』
接続箱にいる神代さんが言った。
「到着は早くなります」
『長谷部を背負える』
「背負ったままN7の手動輪は回せません。下ろせば左脚を固定し直す。そこで三分以上使います」
『扉を先に開けておく』
久世が撤退表を見たまま答えた。
「圧力差がある状態での開放保持は禁止です。あなたが速いことと、扉が待ってくれることは別です」
有線が静かになった。
以前の神代さんなら、禁止の二文字より先に走っていた。
『二人なら、何時に戻ればいい』
行けるかではなく、戻れる時刻を聞いた。
俺は指先で、移動、固定、手動輪、搬送の四つを数え直す。
「午後五時四十分。地上門の内側ではなく、氏名確認台の前です」
『分かった。そこまでが救助』
久世の鉛筆が、一度だけ止まった。
速さを持つ人間が、締切を自分から求めた。
計画の数字が、人を縛るだけではなくなった。
救助者を三人に増やせば楽になる。
その三人目が消費する空気と、帰還路の幅を無視すれば。
「入口からN7まで、無荷重で八分」
久世が右の時計を見た。
「固定と手動輪に三分。そり搬送で地上まで十四分。遅延余裕四分。合計二十九分」
「午後五時十一分開始なら、五時四十分」
「余裕はありません」
「だから条件を四つに分けます」
俺は黄色い保留枠の下へ線を引いた。
一、送気は帰還完了まで継続。
二、救助入域は二名。
三、長谷部一名をそり搬送。有馬、水原は自力歩行。
四、圧力上昇または通信断時は、救助対象と合流前なら即時撤退。合流後の判断者は別途指定。
久世は四行を読み、最後の一行だけ指で押さえた。
「合流後に撤退命令を出す人間が、地上に必要です」
「あなたです」
「私が入域する場合は」
救助班の欄には、すでに一人目が書かれていた。
神代凛花。
二人目は空欄だ。
久世はそこへ自分の名を書かず、まず地上代行者の欄を作った。
誰かを切る規則を、自分だけ免れる人間ではない。
だから、二人目を間違えれば全員が帰れなくなる。
「残り二十八分」
久世の左の時計が、五時四十分へ向けて進んでいた。




